江戸氏から太田道灌を経て家康がこの地に幕府を開いて江戸城を建てたのですが1657年の明暦の大火によって天守他多数の建造物を失ってしまいます。
あの石垣は大火の直後に「さあ城再建」という意気込みで積まれたものですが「さて天守を」の段になってから、幕府は天守の再建を諦めます。
江戸市中の街区整備と復興に資金を集中するためですね。
以降こちらに天守閣の再現はありませんでした。
威風堂々の天守というものが無用の長物であるとの判断がされたそのときです。
江戸市中は度々の大火に見舞われていますがそれに対応するために設けられた「火除地」は当時としては斬新な考え方でした。秋葉原が有名ですが江戸城周囲に複数そのような空き地を設けています。
それまでは大名屋敷に商家・問屋・家屋下町に近接密集状態でどこかで火事があればすべてが灰燼に帰すという状態でしたから。
ちなみに当時の「消防」の感覚(火消し)というものは森林火災と同様ですね。
森林では延焼を防ぐために火災箇所周囲の木々を伐採して「燃料を絶つ」(時として爆薬を使用)方式がとられることがありますが、当時の火消しも延焼を防ぐために「家を壊す」事が主。
バケツリレー的「水」を使う消火はごく初期のモノ限定でした。
乾門から入城するとまさにその正面に天守台が見えます①~③。④は天守台から乾門を見た図。
最後の画像3枚は門の手前から左右の堀を撮影したものです。
そのスケールのデカさがわかります。
天守台では多くの外国人とすれ違いましたがきっとマチュピチュあたりの神殿を連想したのではないでしょうか。
関東の石垣の城NO.1ではありますが、全国区でもこれだけのスケールに及ぶ城はないでしょう。
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