一昨晩の豪雨から一夜明けて静岡市内在住の方と歓談しました。住所地には安倍川のほか直近に丸子川が流れていてやはり避難準備警報がでていたそう。
その方たちは避難はせず家に居たとのこと。
「あの雨では却って危険ですからね」と頷いているとその近所の方で(真面目に)避難した人がいて、聞けば避難所には他に誰も来なかったと。
自治体ごと各所に避難所を設けていましたが、どちらも形式的なもののよう。
各所、施設の鍵を開ける担当者の手配と担当の方のご苦労を思います。
ただし意義としては何かあった場合「対応は万全だった」の口上ができるというものですから。
やれるべき事はやったのですね。
そもそも強制力は無いでしょうからね。下手に強制して退避途中に何かあったらそれもリスキー。
豪雨も地震も自然のもたらす災害というものに術はないですね。
ただ何もないこと(無事)を願うばかりですが、その時には無力、手を合わせるだけです。
「前向きに歩こう」などと日頃は口にしてはいるものの、もうこれから何かあったとしてもきっと私はもはやその気にはなれないかもしれません。
ただ阿弥陀さんの言う通り。
あたえられたことを淡々と・・・そんな感じですね。
さて、かなり以前に訪問した大阪は高槻の富田の三輪神社について記しましたが、実はこの地域は戦国期には普門寺城と呼ばれる城塞化した地でした。
当然に普門寺という寺院が核となっていたのでしょうが、やはり明治の愚策、廃仏毀釈の嵐の中、寺院は荒廃しています。
神仏を完全分離し寺から神社を切り離して神社のみの崇拝を行い、仏を拝する寺を打ち壊して寺領を召し上げるという一瞬間の悪法例でしたが当時の寺とその財物は大いに痛みました。
僧侶寺族には「寺なんかやってられない」という風潮も広がりましたね。
案外、その廃仏の流れは現代にもジワジワと続いていて、その信仰心の欠落と僧侶のヤル気の無さはもうどうにもならないところまで来ているような。
恥ずべき事で言いにくいことですが、自身少なからずモチベーションは下がっていますね。
気持ちだけは踏みとどまらなくては。
昨日の三輪神社の説明板「普門寺の鎮守社」とありますように当初は普門寺の境内地(現在よりかなり広大)にあったはずで、現普門寺に隣接しています(場所はこちら)。
寺を城郭整備したのは細川晴元を僧として隠居させるためですがのちに14代将軍となる足利義栄(よしひで)が滞留しています。
こちらで征夷大将軍宣下を受けていますが在位は永禄十一(1568)の2月~9月とたった8か月です。
情勢不安と自身の病弱によって本来居るべきはずの京都には一度たりとも入ることなくそのまま病没しているよう。
その消息もハッキリしないようで、各文書によっては彼の存在に触れていないものがあるほど将軍として地味な存在でした。
コメントをお書きください