武道鍛錬の守護 摩利支天 興福寺三重塔

それにしてもポルトガル×スペイン戦は圧巻でした。

日本があのレベルに達してその肩を並べられるようになるには「1世紀かかる」とは言い過ぎでしょうか。

 

昨日は史跡研究会の会合。

法事が入っていませんでしたので余裕で参加できました。

来年の田沼生誕祭に向けて書籍の発行と銅像の製作が纏まりそうです。

「早くしないと間に合わないよ・・・」とハラハラの感がありますが、9月の予算案通過後の正式発注とのこと。

 

田沼意次銅像に関しては以前より話はあがっていましたがやはりこちら相良よりも城を打ち壊し、その後に「奪取移転された色々」が多彩に残り、かつ今も「田沼」地名の残る藤枝市の方が知名度的には高いものがあるという現実から、ここは一つそのような品物があってもいいのかと思った次第です。

 

ただし通常「銅像といえば1000万円」(台座込み)と高額予算を覚悟しなくてはなりませんので「あれが欲しい、これが欲しい」などと他にもおねだりはできないことは承知しています。

(今を逃がしたら銅像は立たない・・・)

ちなみに以前静岡駅前の家康の銅像についてブログにて記しましたがその後ろ側に今川義元の像を建てることになったと聞きました。

出生地駿府でなくこれまでは没した桶狭間に信長と並立してあったに過ぎなかった義元像がようやく・・・というところ。

小和田先生もそこのところ大いに御指摘されていました。

 

既に発注が掛っているといいます。事情通によれば家康の肩に手をかけている姿になると。いつも記していますがついでに「伊勢宗瑞も建てちまえ・・・」です。

その場に滞留した時間でいえば彼は小田原よりも駿府に居た方が長かったはずです。

 

さて昨日記した宝蔵院流槍術発祥の地の石碑を見てこちら宝蔵院にあったはずの遺物がまだあったことがわかります。

それが宝蔵院の庭園にあった大きな石。

その石に摩利支天に武術鍛錬成就を祈願して稽古の相手としたとのこと。

 

摩利支天といえば山本勘助を思い出しますがサンスクリットで

「陽炎・威光」を意味するといいます。

「光」は太陽の如く発光体実態から離れ、そのもの自体を把握することはできずそれでいてその実とは切っても切れない如く随うところ。それこそに武術の神髄があるのだということでしょうか。

当流の阿弥陀仏の発する光というものは「無明の闇を明らかにする智慧」(他力)といいます。

武道家の摩利支天への傾倒はあたかも「光に成る」(自力)といった行をも推することができますので同じ「光」に関する仏であってもそこのところ、異にするものでしょう。

 

摩利支天石は一旦は明治のドサクサで他所に引き取られていましたが平成になってからこちらへ定住の地を移しています。

かつてあった宝蔵院の位置ではありませんが、猿沢の池の真上、南円堂の真後ろ、三重塔の真ん前にあります。

この三重塔に関しては案外とパスしてしまう観光客が多いようです。