昨日記した「異常な領域」のもう一つは時々耳にする「だれでもよかった」の凶行。
実はそれ、相手を選択していますよね。自分より弱そうな者を。
よって女性や子供たちへその勝手な「むしゃくしゃ」とやらの暴発を向けるのでしょう。
22歳の彼が精神的に追い込まれていたことは十二分にわかります。特にその年齢といえば息子と同じです。
そのオトナに成り切れていない彼が新幹線の中で刃傷事件を起こしたというニュースは世を震撼させました。
考えさせられる事が多くありましたが特に自分が頭の中に引っかかるのはあの時自分があの場にいたとしたら・・・です。
東海道線新幹線の利用は家族とも頻繁ですし、たまたま居合わせることもあるかも知れません。
前回の新幹線放火事件の際は全線不通になりましたが奥方がその車両のすれ違い車両に乗っていたために缶詰となって結局は自宅に引き返していました。
私の考えるのは「違う車両」ではなく「その場にいたら」なのです。
きっと逃げ足だけは早いと自慢の私ですから誰よりも瞬時に走ることはできましょうがここは一つ考えなくてはなりません。
僧職の身として「説教一つできずに命欲しさに逃げるのか」という自問です。
果たして狂気の怨念復習に満ちた眼光を見開いて大ナタを振り回す彼にまともな問答ができるものかなどは甚だ疑問ですが、これはただただあの場面を推するに「誰も捨てないはずでは・・・」という如来さんからの問いかけも感じるのです。
いやこれは私だけではないでしょう。あの時反射的に逃げ出した男性諸君の中で、そこのところ大いにトラウマとなるポイントです。
どうしてあの犠牲となった男性の手助けができなかったのか・・・みんなで協力して止められなかったか。
これは物理的に無理であると思われる状況であってもそう思わざるを得ないでしょうね。
やたらと国民栄誉賞とやらを世間人気の「スター」に与える風潮があるようですが、そのような賞はあの狂気を止めようと身を挺して犠牲となってしまったあの方に差し上げるべきだと思ったのでした。
それがいつも問題から逃げ回って我が身の可愛さあまっての幸福を追いかけてばかりいる私たちの少しばかりの反省ではないでしょうか。勿論政治家たちもです。
さて、あの風光明媚で静かな山中に佇む田峯城には怨念復習を雌伏約1年に渡って醸成し、遂にそれを無残というカタチで晴らしたという歴史がありました。
その人が菅沼定忠です。
昨日は「忠」について記しましたが定忠は父が今川の手で排除されたのち幼少期に家康のバックアップを得て田峯菅沼の家を継承しています。それを思うと彼の「忠義」に関しては徳川の恩は特に厚いはずです。
ところが信州に近いという立地状況とあの時点からいって致し方ないのかとは思いますが武田の調略を受け他の菅沼一門(「山家三方衆」―作手の奥平、長篠の菅沼、田峰の菅沼)との袂を分かちます。結局はその三方衆の動向の結果として長篠設楽原の戦い~武田滅亡のスイッチとなるのですが・・・
以来菅沼定忠は文字通り(「定忠」)武田の麾下に入って戦働きを重ねます。
長篠設楽原のボロ負戦では勝頼を連れてこちら田峯城に帰城したといいます。
敗戦疲弊の戦場離脱の憂き目の総大将を甲州に逃がしつつ「我が城」田峯城にて休憩ともてなしを行う算段でしたが、なんと城門は閉鎖されていたという屈辱。
留守居役の家臣団が城主菅沼定忠に反旗を翻したといいます。留守居役は武田形勢不利とみて徳川反旗の件は城主定忠の錯乱が理由とでも画策したのでしょうか。
彼の味わった大恥と焦燥感は計り知れなかったでしょう。
普通に考えて「帰る家が無い」ということですし、大事な客人を招いていたのですからね。
定忠一味は信州に潜伏、虎視眈々と復讐を誓ったのですが、門前払いからの一年後に夜襲をかけて城を奪取しています。
その際の制圧戦で捕らえた留守居役の首謀者と言われる今泉道善を城近くの丘の上で鋸びきの刑にしたといいます(場所はこちら)。
鋸びきの刑といえば大賀弥四郎に杉谷善住坊を思い出します。②③は処刑がなされた道善畑からの景色。
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