ニュース報道を見ていると日々想像を超えた、以前ではとても考えられないような事件事故が飛び込んできます。
そんな世風に大分慣れっ子にはなりましたが、その現象に慣れさせられているというのはいかにも異常です。
この国はもう既に昔僕たちが考えたいたようなありえないような異常な未来に足を踏み入れているようです。
特に拙ブログでも記している自動車の免許証返納の件ですが昨日も「ブレーキとアクセルを間違えた」(との供述)車が買い物客で賑わうお店の正面に突っ込んでいました。
運転手の年齢は55歳とのことでこれもなるほどと。
どちらかで記していますが、私の知り得るその手の事故は年齢というよりも上記のような瞬時のパニック系と勘違いばかりですからね。
すべてを年齢のせいにするのはおかしいことです。
ただ「過失」(法律上)というものが引き起こす事案は殆ど自己を過大に評価安心することから始まります。
ということでオチとしては「自分を信じない」が有意な発想かと。やはり「自分を信じて」などのセリフは好きになれませんね。
さて、「仁義礼智信」なる儒教的語の羅列があります。
私は「義」についての親しみ(これは既出ご先祖様の名にあるから・・・)はあるものの、「仁義」という語に関して特に小さい頃に見かけた東映系の任侠映画のイメージが強く残っていますので、どうしても違和感があります。
まぁ仏教でも当流の考え方からすれば、それぞれの語の持つ意味は道徳的「人間そうあるべき」ではあるものの、実はそう簡単に一筋縄ではいかないというのも人間の姿。
だいたい「仁義」の字面を見れば「思いやりと正義」。
それはそれは生きていくうえで大切なスタンスではありますが上記映画の内容ときたら「罵声と人殺し」ばかり。
そしてまたその五つの文字中「信」の意たるや殆ど上記「自分を信じて」の「信」でしょうね。
話はすっ飛びますが「信」は「人が言う」と記しますね。
それを「実践していく」ということも含みますがそこでW杯出場が晴れて決まったホンダ君の弁が相変わらずそんなこと・・・と苦笑いをさせられましたがそれが「W杯優勝」でした。
ここまで来ると教祖様。お怒りになられる方もいらっしゃるとは思いますがそうも仰るならむしろどれほどボロ負けするかが楽しみとなってしまいました。
私の友人などまったく得点のできない先日来の対外試合を見て「出場辞退して帰ってこい」とまで言い捨てています。
点取りゲームのサッカーで点が取れない現実につき、よくもまぁ舌先三寸が言えるものか。
年長者多し(人気取り)の選出に対しそのクレームを言う人は「サッカーを知らない人」と言い放ったベテラン金髪選手がいましたが、それを言うのはまだ早し。
どうか「実践勝利してから」お願いします。
昔、NHKの人形劇からそれらの語の羅列を見覚えたのですが、その5つのほか「忠」(忠誠を尽くす) 「孝」(親を敬う) 「悌」(目上の者に従う)」の3つがありました。
その三つに関しては封建社会の縦割り社会でのどちらかと言えば上からの目線の美徳ですが、この「忠・孝・悌」を眺めていると私は田峯菅沼氏を想います。
「遠州忩劇」については井伊家はじめ何度か記していますが、元はと言えば桶狭間を期に今川安定期が崩れたこと。
以来武田・徳川そして織田までが遠州・三河を舞台に進出し覇権を競いあいました。
菅沼氏はブログ(またはこちらそしてこちらにこちら こちら)にて記していますようにその大混乱期に大いに翻弄された一族でした。
田峯城といえば昨日記した英文掲示板の如く「菅沼定忠」という人の名が出てきますがその人の「忠」については色々と考えさせられますね。
最終的には武田の選択となってそのまま武田と命運を共にしたのでしたが、それ以前は徳川であり当然にそれ以前は家として今川でした。
彼の父親の菅沼定継も今川への一旦の反旗の咎から謀殺されているといいますね。それは一族すべての方向と期待が一枚岩ではなくそれぞれの思惑で動きつつ、惣領が総意をまとめることが出来なかったことがイケませんでした。
名家の菅沼家の没落は当時上下下達一本槍の封建的縦社会にありながら一族皆々の発言権の尊重もあったのでしょうが、きっとそれが惣領制と家臣団纏まりというものを失してしまったのでしょう。
何かを決定するにあたり道筋として談合は大いに有意義でありますが、一旦方向性が決まったのなら一族総力で向かわないと破たんするということは歴史が証明しています。
この山中(失礼!!)にしっかりした復元城館が建てられていることに感激しました。
発掘調査は一応は済まされているのでしょうが、同等城館施設での建造物を正確に再現しているようで少なくとも我が町近隣の「吉田城」とやらから比べれば断然に真面目さを思います。
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