香之庄 養専寺標語と香之神社前の宝篋印塔崩壊の美

国道1号線茅ヶ崎駅直近の東海道一里塚は都市開発の流れの中、今も遺る奇特。これからの世はその手の遺構については大切にまもろうという機運が高まっていくはずですからここまで来れば未来に向かって存続していくことはまず間違いないところでしょうね。

 

今回そちらの道標に向かって国道から突っ込むように歩道に入って歩行者を跳ねてしまったのが90歳のお婆さんでした。

死傷事故により逮捕され、報道では敬称は無くいわゆる犯罪事件の仲間入りと相成ってしまいました。

被害者の方も「思いもしない突然」を受けての事でとても気の毒なことですが加害者にも同情したくなる事案です。

周囲の者たち皆を不幸にしたこと、何ともやるせない現実を迎えてしまいました。

90歳という年齢で車の運転ができるということに感心するのと同時にやはりそういう結末か・・・というところもありました。

 

暴走事案は年齢に関わらず発生していますので特に「その年齢が・・・」というところに強い違和感はありませんが実際声が上がっているのは「何故にそれまでに免許返上を選択しなかったか・・・」です。

しかし私の周囲で起こっている「うっかり暴走」の事案は50代からありますし、その原因について年齢が年齢だからと一概には言えないところがありますね。

その意見はまずこの手の事案に登場してきますが、そもそもそれ(返上)を選択するしないの判断は当人の意思、「自由」ですからね。

社会は免許証の保持については適正な手続きがあれば承認していますので。

 

その手続きの一つに「75歳以上」は免許証の更新時などに「認知機能検査」というフィルターが設定されていますが、聞くところによれば殆ど「ざる」といいますね。

私の知り合いの方でその方の父親に認知機能の低下による度重なる物損事故に呆れていたところ免許の更新を迎え「これは落第!!」と期待していたところスンナリとパスしてしまってガッカリと。今は「車に乗せろ いや乗せない」で家庭内で揉めています。余程のことが出現しない限りまずは通過してしまうようですからあまりその検査というものに意味はないような。

 

息子としては人身事故を起こされてはたまらないと必死ですし、御当人は「大丈夫」と言い張っています。

しかしこの親子の関係はむしろ適切かもしれませんね。

親の車の運転ができるかできないかについて一番知っているのは子息ですからね。

難しいテーマですがやはり家庭内コミュニケーションは大切です。

 

ちなみに私事、この頃運転の自信というものが失せてきましたが「まだいいんじゃね ?」と能天気です。このままいくと「私は大丈夫」の如くの陥りやすいその性質の出現、危惧は感じています。

いつ息子に「ダメ」の断を喰らうのか・・・。

その時は神妙にお縄を頂戴いたすことを誓いましょう。

その件、ある意味「しあわせ」なことですよね。

 

さて狩野は「かのう」。軽野は「かるの」香之庄は「このしょう」と近江「蚊野」地区について記しています。

その香之庄の交差点近くの道路脇に今一つ私の「静体視力」で見つけた宝篋印塔について。

蚊野の街区より香之庄交差点を天満宮を左に見ながら28号線を南東方面に曲がります。

 

左手に真宗大谷派の養専寺を見かけて参拝。

そしてスグにまた「香乃神社」が

香乃庄の香乃神社ということで了解・・・しかしなぜにしてこの地は「かの」「こうの」の音(頭文字「K」)にこだわっているのでしょう。面白すぎますね。

 

車両走行中「香乃神社」の名に「なるほど」と感じいってその向かいに目をやると大木が目に入ってその下に残存映像としてあったのが見覚えのあるカタチでした(場所はこちら)。

ここでもまさかの宝篋印塔の出現です。

欠損崩壊の目立つ宝篋印塔ですが塔身四面月輪種子に格狭間に反花座が確認できます。隅飾りについては4面とも欠損していますが立ちあがり具合と風化の様子から南北朝期から鎌倉後期くらいまで遡るかも知れません。

 

その際私がいただいたメッセージは養専寺前の地元仏教会による看板に記された言葉。

       

   「あなたは いったい どうなりたいと 

               生活しているのですか ?」

 

こたえは人それぞれあっていいもの。

あえて私が口にしたことは

「さて。どうなりたいなどないし・・・疑問に感じられるのは当然の事でしょうが・・・どうにもなりません。」

うまい空気と青い空を眺めて生活したい、そんなところでしょう。あるがままですよ。

 

香之庄は村川さんだらけのよう。