先日は「山口神社」なる名称について記しましたが「御霊神社」名称も各地にありますね。
私事一番に思いつくのは京都の大乱(応仁・文明の乱)勃発の地として名のあるそれですが・・・。
名称から推するに前者のそれ(山の麓口)とは違ってどなたか対象人物の「怨念」を鎮静化するためという要素が多分にあります。要は「今は反省しています」の表現でしょう。
「貴方様のご無念については地元民一同了解しています」よって「今生きる我らに向けて悪さはしないでください」といったところでしょうか。
各伝承としてそのどなたかを特定できる御霊もあればどなたの霊を鎮めることを目的にしたものか不明のもの・・・色々です。
話変わって以前も記したこともある私の「静体視力」。
そのような語は世にはないでしょうが・・・。
運動神経に欠かすことができない「動体視力」に関してはよく言われますが、私の得意能力の自慢として「奥の墓道」氏に車上運転中であっても遠くの「墓石」を見つけ出すことが出来るのだ、如くドヤ顔をして言い放ってから使用しています。
しかしそれを初めての人に言ったとしても「何それ?」でしょうね。
昨日も触れましたが「墓・城址は藪の中」説は大いに当たっていて特に近江の田園風景の中にそのような場所があれば要チェックポイント。
ただ車からの景色を漫然と眺めていてはその出会いにはありつけませんね。
さて、偶然にそれもしつこく探索した結果「出会い」という「果実」を得た件記します。
それは墓石ではなく、ある鳥居の手前に建った掲示板が通行中に目に留まったことから。
その神社が御霊神社(場所はこちら)。
宇曽川上流の橋の手前、土手の下という感覚ですが、その橋「金剛寺橋」の交差点付近から何となく最初に見かけてから「ああ私を呼んでいる」とその神社に通じる道を探しました。
掲示板の内容など考えもせずにです。
「探した」というくらいわかりにくかった(到着してみれば大したことはないのですが)のは前述の通り天井川に河川を囲う堤防と橋を繋ぐために立ち上がった道路が交差する場所で付近には降り口は見当たりませんでした。よってあっちこっちを彷徨ってしまいました。
こちらの地名は「蚊野外」。
勿論私はこの地名を見てニヤリ。第一コレを見て「蚊帳の外」を思わない方はいないのでは・・・。
しかしそれはイメージ膨らませすぎ、実際の読みは「かのとの」。
「外」の「との」読みは苗字等でよく見ますがこの辺りでその「音」を聞くとやはり「殿」を考えてしまいます。
こちらには掲示板の如く鎌倉末期の宝塔が森の中にあったのですが、思わず歓喜しましたね。意表を突かれましたので。
これも「まずは、そもそも・・・」と前置きして神社境内に「墓標はない」というのが常。
そう踏んではいてもあの掲示板と鳥居の様子は何故か私を誘引するにただモノではない何かを感じさせましたね。
尚、そもそも神社、特に新しいものは絶対といっていいかと思いますが墓碑・墓石は無いと踏んでかかります。
神社は「死」を嫌うという傾向がありますので。
死を穢れと解することを特に強調されたのが明治期でした。
しかし神仏習合の時代もそうですが戦乱期から廃仏毀釈を通して寺→神社の流れもありますので、一概には神社に墓塔は無いとは決め付けられないのですが、神社境内の探索に関してはいたってサラりというのが基本です。
そんなスタンスでいるだけにあの宝塔との出会いは喜びでした。まずは余程の執念がなければあちらにはたどり着かないでしょうが。執念の甲斐があったというものです。
あの際は奥方が隣の席にいましたが、「どうせ何もありゃあしないから車番している」でした。
車は近くの蚊野外公民館の前に駐車したのですが、それは神社付近の行き止まりの転回不能を考慮したためです。
車で突っ込んだとしても問題はありませんでしたが。
画像後ろ4つが公民館近くの図。
コンクリート製の覆堂は初めて見ましたがキレイに整備されてこういうカタチもアリと思ったところ。その辺りにぶん投げられて放置されているような石仏をそこここで見させられていますからね。
地元教育委員会の看板設置期日からして、長い間この森の中に見落とされていたのでしょうか。
尚、看板設置場所や境内社殿からは離れた場所にあります。公民館側です。
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