日本大学の「守りたいもの」のすべてがそれだとは言い切れませんが昨日の新聞紙上による指摘はお国からの私学助成金の件。なんと金額は「80億円」というから驚きです。
ところが理事の不祥事等へのペナルティとしてその補助金が減額となったり交付されなくなったりするとのこと。
ということにより監督(副理事)が「私の指示です」と白状できずまた大学としても監督を守りたいという意思が働くというものです。
ということで社会に日大OBが溢れていますので各方面からの擁護忖度の醸成を期待して一同バックレの意思統一、刑事告訴の一つや二つ「やれるものならやって見ろ」の大バクチを打ったというところでしょうか。そのオトナのバクチたるや一人の学生の存在を葬り去るということになりますから、結果的に学生を犠牲にして80億を取ったというのが今回の不自然な日大の「ツッパリ」だったということで合点がいくわけです。
私たち庶民的思考たるや今やあの時代劇、「水戸の御老公」の采配の如くスカとした結論が出る事。
80億円召し上げのうえ担当者「お仕置き」は当然の事。
「お取り潰し」がないだけありがたいと思わなくては・・・
大甘の処断など期待するだけアホ。
あれだけ世間様の怒りを買ったのですから各大学OBももはや守り切れるものではありませんね。
ちなみにその「80億円」は元をたどれば私たちの税金ですし。
さて昨日久々に記した蚊野の軽野神社付近ですが、こちらの起伏のない平の田んぼを隔てた場所~隔てたと言っても100mもないような場所です~にかつてあったのが狩野城。
私の「竹藪・藪には何かある」の主張に違わず、軽野神社から見た風景は「島状に竹藪」の感。
ただし蚊野の中心集落がその向こうに続きますので「島」ではなく軽野神社からは城址を西から見たような恰好になるかと(場所はこちら)。
ちなみに「竹藪」が単独に残存するその意味は「かつてあった城砦跡か墓域」を推測します。かつての領主・支配者の城砦跡も墓域も後世になってからも「手を入れる」ことに遠慮があるからです。勿論伝承口伝によるもの「禁忌」の部類ですね。
また近代においてそれらタブーは「公共の福祉」という大義によって排除されていることは言うまでもないこと。
「竹藪が残っている」ことが奇特な時代になりました。
平地の城館址は往々にして住宅化していきますので殆ど遺構は残りませんが、かといって安易に落としやすいと思うのは早合点しすぎ。私は低湿地帯に浮かぶ城塞を想像します。
近江の地名と人、恒例の佐々木南北諸士帳(愛知郡)を開くと
上蚊野 佐々木随兵 蚊野右馬亮
甥子 三九郎
上蚊野外村 佐々木随兵 蚊野讃岐守
上蚊野東出村 佐々木随兵 村越越中守
とありました。また「日本城郭大系」にもあって
「創築年代は室町時代中期、創建者は『狩野将監』。
狩野氏については、明応六年(1497)の『永源寺文書』中に狩野将監の名が出ており、また観音寺騒動で、六角氏に抗した布施氏が江北の浅井氏と通じて蒲生野(布施山城の戦い)で戦った際に、浅井氏に従い、その五番隊として活躍したことが記録に残されている。」です。
その文書には「狩野将監の狩野城」佐々木~の方は蚊野の蚊野・・・やっぱり「耳」から入る「音」から各イメージで書面に記したもの、それぞれあてた文字が別々に伝承していったのでしょうね。
①②軽野神社側から。③が軽野神社を。
④⑤⑥軽野神社からの入路手前にはケヤキの大木が迎えてくれます。⑦微妙に土塁を推する西側の畔。⑧水路が走っていたり⑨石材が乱雑に放置されていますが・・・不明。
字名として「城西―しろにし」が残っているよう。
今は「末広稲荷大神の杜」ということで。
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