チャラいといわれてニヤリ 円成寺阿弥陀如来周辺

二日連続の夏日。

ほんの僅かな時間、境内で植木いじりをしていただけ。

奥方は私の顔を見て「日サロ行ったのか・・・」。

 

この「日サロ」とは「日焼けサロン」のこと。

勿論私は紫外線の吸収率が高くまた「キレイに日焼けしよう」などと思ったことがありませんのでそのような施設に金員を支払ってまで行くことはありません。

これはかつて私どもの居た職場で若衆がよく使っていた語で我が家では特に「チャラついている」という意で使用しています。

 

ここでの「チャラ」とは「チャラチャラしている」ということですが、しっかりとその語を一言で訳せば「軽薄このうえない」ということ。

少々それを長めに記せば「人間に重みが無く、言動とも軽はずみ感があってそもそも元来のその性質(タチ)のために失敗が多く何事も長続きしない」そんな感じでしょうか。

 

私もその形容をこちらに記していて「なるほど」と自分の事を言い当てているように感じないワケでもないのですが、するとさらに自己分析をすれば「行きあたりばったりの即断投げやり諦めの無責任」でした。

 

ただし現在のお仕事のうえにできるだけそれらを「殺して」表に出ないようコントロールを心がけているという感じでしょうが時としてボロも出し、ボキャブラリーの少ない私は言葉でもって「人を傷つけた」と思われる事も多々ありますね。

 

阿弥陀如来に首を垂れる身として「そうであっていいのか」という気持ちに苛まれますがこればっかりはどうにもならない性分です。

少々の自己嫌悪は残りますが同時に生来の楽観主義によってまぁ何とか「心」を維持できているだけありがたいことです。

 

そのように人の心などは脆いものですね。

最近も色々な場所で人というものの「暴走の顛末」を見せつけられていますがきっとどこかでその心を支えている何かが切れたり折れたりしてしまうのでしょう。

これらはすべて「他者との接触」を起源として起こります。

人と人との間に生ずる心の緊張と不機嫌は「人間」(文字通り人と人の間)社会には「つきもの」であり避けては通れないものです。

 

やはり行き着くところは「阿弥陀さんよろしく」の「他力」。私は「イイ加減」という言葉が好きでいくつかある座右の銘の1つにもしたいくらいですが言葉を言い換えて記せば「まかせる」「ありのまま」で人生歩むうえでとても大切なスタンスだと思っています。

よって世に云う「決してあきらめない !!」などいう語、首を傾げてしまいます。どちらでも容易く使用していますが「諦めなければ実現できる」なる語は実現できた特異の人の得意の言。

それを信じてはイケません。

「足したり減らしたり」うまい具合にやりましょうよ。

あと少々「チャラい」というのも悪くない。

 

ああ、それを正確に言えば「諦めなければ実現できるかもしれないが挫折することもある。その時は次の目標を持とう」かな。

夢ばかりを追いかけさせないで欲しいものです。子供たちがバーチャル(仮想)の中で住まうようになってしまいます。

 

画像は円成寺本堂。

ご本尊は阿弥陀如来。何となく撮影してきましたが、撮影禁止の看板はお見受けできませんでした。この寺も「真言+浄土系」の匂いのするお寺、奈良には當麻寺はじめそのハイブリッドが見られます。

 

最後の画像が昨日夕方に放映された「とびっきり静岡」の一コマ。史蹟研究会会長として小澤氏がゲスト出演されていました。これまでない「相良の田沼意次」へのウェイトの高さでした。生放送だったよう。

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コメント: 2
  • #1

    小山昭治 (水曜日, 16 5月 2018 08:51)

    「行き当たりばったり」なんて「臨機応変」ということです。
    「何とかなる」は「神様の言うとおり」なんてものでしょうか。
    旅行を楽しんでください。
    「十割蕎麦」は私が行ったときは開店してませんでした。
    でも店構えや看板は覚えています。
    食べたいなあと内心思ったのでしょうね。

  • #2

    今井一光 (水曜日, 16 5月 2018 12:37)

    ありがとうございます。
    蕎麦はいいですねぇ。
    どちらに行っても蕎麦屋の構えを見てお腹の具合を
    問い合わせてしまいます。
    好きなように楽しんでなんでもかんでも仕舞には「阿弥陀におまかせ」と
    念仏していることほど気が楽な事なことはありません。