午後3時からの世話人会を遅刻するという失態をやらかしましたが、まぁその前の法事のお斉で時間が過ぎるのを忘れるくらいおしゃべりに花が咲いたというワケでした。
正面に座った方も世話人で「一緒に行けばイイ」くらいの気持ちでいたのですが、ちょいと調子にのりすぎたようです。
息せき切って本堂に駆け込めば、ずら~っと居並ぶ総代・世話人・婦人部の皆さん。心なしかしら~っとした冷たい視線を感じていつもより大音声で正信偈を拝読。
2、3分の遅刻でしたがここ相良タイムは30分前集合はごく普通ですからね。
この「敗因」を言えば、開式が11時と1時間遅かったこと。
午前10時に続いて午後3時開式の法事も時としてありますが、あの調子でおしゃべりをしていても十分に時間はありましたのでつい・・・。
興味ある話ばかりで特に印象に残ったのは相良本通り付近でボーリング調査を行った際、「かつての津波の痕跡は出なかった」ということ。
大澤寺地震記の襖修復の件、当然に安政大地震での損傷の修復ですが、私は大澤寺の本堂の襖の下辺くらいまで泥水が掛かった可能性を思って6m程度の津波があったのではと考えていました。どうやらそれを修正する必要があり単純に地震の揺れによって襖が壊れたというのが事実かも知れません。
それでも腑に落ちないと思ったのが昔から言われる「大沢の十二社神社まで舟が流された」という地元の伝承。
それってどう?と聞き返せば萩間川を津波が逆流して舟を押し流したと。なるほど・・・
現在の大沢のその神社のある辺りは海岸線からの遮蔽物もなく大澤寺辺りが6mの津波があれば舟が流れ着いたとしても十分にその件、考えられる場所でした。
ということは・・・「相良には地震は来ようが津波はない」という結論に至ったのでした。
150号線沿線には結構に新築家屋ができ始めています。
地震記には相良湊の船舶の津波による惨状については記してあるものの、寺について津波での被害について触れていませんから。地理的に見て遠州灘や駿河湾沖で発生した津波が収束して大きな被害を及ぼすであろう場所はどう考えても沼津でしょう。遠浅の砂浜の海岸は波を立たせないとも思います。
あと一つ、同席した方から例の件も持ち出されていました。
「何故にして相良+川崎=牧之原なの?」でした。
今居る相良人のどうにもならない心のわだかまりではありますが外に居る方は遠慮なくその単純疑問を吐露してくれます。
私も同様に感じていますが既に遅しの感ありますからね。
相良藩という歴史上著名な地でありながら榛原町に遠慮してその名を捨て、金谷原の名を名のるなどあり得ませんからね。
世話人のS氏はその事含め、「今ここは何をやってもダメ」ということが標記「牧之原市は負之原市」と。言い得て妙。
画像は大沢の十二社神社。
俗説に12艘の舟が着いたというものもありますが、中村先生の作られた看板内容からすれば、それはウソでしょう。
場所はこちらです。
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くりくり (日曜日, 25 3月 2018 23:12)
榛南市なんて可能性も有力だったようにききました
そういえば菊川方面では小笠という名称は聞かなくなりました
今井 一光 (日曜日, 25 3月 2018 23:19)
ありがとうございます。
榛原町が「榛原」を捨てるので相良町も「相良」を捨てるべきという理論がまかり通ったと聞きます。あまりにもくだらなくて短絡的バカバカしさを思いますがその意味からすれば
「榛南」は没になったのでしょう。
だいたい「榛原」などいう町名は新しく元は川崎とか雑賀ですからね。
相良の歴史の古さと同じ土俵に上がることなどあり得ないことです。
その通り、小笠と言っても通じない人も出つつあります。
何も知らない者たちが突然降ってわいたようにやってきて無責任にわ~っと何やら
決めて居なくなるというのは腹立たしいことです。