行僧原「十三保」の霊神社 独特の地元伝承

先日寺参りに来られた方と境内のベンチで。

その方は独り暮らしながらお元気印の「バリバリ」お婆さん。「婆さん」などと言ったのがバレればシバかれそうですが・・・

 

その方は私を見かけるや否や「お話がある」と。

要は「終活に入るぞ」宣言なのでした。体中からきしみが出てきているとのことで観念したそう。

これまで営んできた店舗をたたんで、15万円/月程度の施設を見つけたと、パンフレットを紹介されました。

「手頃な価格ですね」とは言ったものの「年金+貯蓄切り崩し」での維持を連想しますが、それでもその財力について感心したのでした。

 

するとご主人とその父母の眠る墓地は永代供養として改葬する予定と。そしてご当人は「自身の始末も決めている」と強い言葉で葬儀の手間を残る娘にかけさせたくないと、某医大に検体の予約、遺骨はそちらの納骨堂に入ることにになっているとのこと。

改葬して拙寺の「一處墓」に入るのなら、あとからこちらに入るのも自由ですよ・・・と言えば「それが嫌だから」と「まっぴらごめん」の本心を吐露されてしまいました。

 

いわゆる「夫と同じ墓には・・・」の切実というものを初めて聞いた次第でした。

求婚の言葉に「うちの墓に入ってくれるか?」というのもアリかもしれないと。まぁ当初のうちは「それでいいか・・・」というところ、それ以降に「冗談じゃあない」が醸成されてくるのでしょうね。「時」の経過はまことにおそろしい。

 

「おそろ(畏)しい」・・・といえば天正年間に拙寺開祖と同行してやってきた五家のうち河原﨑家一統の住まう御前崎上朝比奈周辺(道を隔てた牧之原市鬼女新田含む)の住宅を囲み込むような場所、一面茶畑が広がる台地上ですが、そちらにはある伝承が残る小さな社が建っています。

 

この地の古い地名は「十三保」。

詳細知る由もありませんが、例によって私のコジつけを記せば「十三人の霊を守る」でしょうか。勿論その祠の名が地名の語源でしょうね。

この社は「霊神社」「霊神さま」と呼ばれていますがいかにもちっぽけに感じます。しかし周囲(8軒程度)の家々の管理で鳥居が壊れたりの修復維持管理はかなり手厚い風。

年に一回は神主を呼んでお祀りをするとのこと。

 

上記コジ付を思った理由は「禁忌」の数々。

特に感じたのは祠の脇に何代目かの桜の木が立っていますが、その「枝は絶対に切ってはいけない」といいます。

もし何か枝を払ったり「触る」ことがある場合には必ず神主を呼び寄せて「なにか」に許諾を得られるよう奉るとのこと。

親から子に代々「言い聞かせ」で伝わっている件ですが、このように「禁忌」の発生はまず「緘口と反省」にあると想像できるのですが、これは日本全国どこにでもあったお話ですが、土地や水をめぐる開拓進出者と土着民との紛争の存在ですね。

 

争いに勝利した方が(これは進出者グループ)、「緘口と反省」を祠を建てることによって表現し、未来永劫「祟らずに鎮まる」を願いとしたのでしょう。

すべて私の勝手な推測ですが、それとは別に古墳を潰して開削したような時なども(以前は小さな古墳は私有地内所有物的感覚で管轄行政は無管理です)このように祀ることもあります。

相良菅山にもやはり明治期に連れて来られた囚人たちを井戸に埋めた竹藪が地元「禁忌」の場でありました。

 

場所は行僧原公民館の裏になります(場所はこちら)。

尚、公民館前には昭和29年に亡くなった河原﨑本家の河原﨑忠平師の顕彰碑が立っています。

 

画像④の奥にある墓地が近年整備された河原﨑一統の墓たち。

それ以前はバラバラにあったものをこちらに集めたといいます。その墓のさらに奥が谷になっていて川が流れています。

この台地は水の手が極端に悪く、こちらに住まう皆さんの幼少期といえばこの谷からの水くみの苦労を話されます。

この辺りでは水道が敷設されたのが一番遅かったエリアでもあります(昭和でも戦後か)。