私の声明、葬儀式偈文等から御文の拝読、そして式典締めのご挨拶を兼ねたお話の類など取るに足らぬものとは承知してはいますが・・・
「生臭坊主の読経など聞いちゃあいられない」という意思表示もそれは御自由。
先般葬儀にて体験したことです。
その方は「気分を害している」(式進行司会者より)ということでしたが、発端は弔辞の順番が2番目(3人中)だったことからと聞きました。
そういえば式中、弔辞拝読のために仏前に進んだ際、司会者がマイクの位置を整えて案内した際「うるさい!」という苛立ちの声をマイクが拾っていました。
一同固い雰囲気漂う中、教え子である故人との関係が淡々と述べられる弔辞の中から知られるワケですが、一貫して微妙に感ずるのは「上からの目線」でした。
「かつておれ様が見込んだ」風でした。
あとから知ったのですが、その地区ではこの方「弁の達者」をウリの顔役だったといいます。私は初めて聞く名でした(ただし「しるものかぁ~」などの罵りはしませんでしたが)。
今度どういう方なののか皆さま方に聞いていくことといたしましょう。
葬儀中、焼香が終わった辺りから私の真後ろ(来客席最前列)でぺちゃくちゃとおしゃべりの声が聞こえていましたが(独り言だったのかもしれません)、ずっと式の進行についての不満をぶちまけていたようです。
当方は「発声」していますのでよくは聞き取れませんが、後ろで何か言っていることは耳に入ってきますからね。
特にあの場での経文以外の雑音はひときわ感じますので私の思いとしては「やれやれ・・・」でした。
この地では葬儀中におしゃべりがあっただけで、僧侶が途中退席したり、中には数珠を壇に投げつけて帰寺してしまったという事案をも聞いています。遺族家族の右往左往の様子が聞こえてきましたが、ハッキリ言って式というものが台無しになりかねない事です。
僧侶も「尻腰のない!!」とその許容度の浅さを指摘されましょうが、葬儀中というものは一般的に厳粛・静粛を常とするものですね。
僧侶が仏事に傾注して命を懸けるほどに息を止めて発声し全身全霊でもって「仏」に向き合っているところにきて、後ろで「ぺちゃくちゃの日常」を演じられては敬意も無ければ配慮も忖度も何も感ぜず空しさのみしか残りませんから。よってその僧侶の「退席」には同情します。ただし私自身は気か小さいので感情は殺して対応してしまいますが。
何よりも故人と家族に対しての非礼につながることですが、あの式典だけはどんなに不満があったとしても式進行中だけは大人しくしていないと後ろ指を指されることになりかねません。
携帯の呼び出し音を出しただけでも大ひんしゅくを買うくらいです。
その時間が我慢のならないという御仁は出席を遠慮した方がイイでしょう。
ご自身のこれまで培った人望を一時に失うことになりかねません。
繰り上げの初七日法要を前の休憩中にその「順番2番目」の御不満からのその方の「変態」の件を知らされたのでしたが、私は「放っておけば・・・」とニヤッと笑って一蹴。
するとその方は初七日の読経と御文拝読に続いての私の「ご挨拶」の段となって一気にエスカレート、というか私がその方の目の前に立つことになったが故でしょうが、何かを言いながら腕を後方に振って「早く終わりにしろ」的意思表示。
目を見てハッキリと様子をうかがえばまさに「真顔」でした。
この方は「果たして痴呆症なのかもしれない」と頭をよぎりましたが先の弔辞の拝読とその内容からして、絶対に健常であると察し、法話に関しての締めのお話の内容をプランB(アドリブ)に変更。
唐突な切り出しになりましたので、敢えて「あなたに言わせて欲しい」という私のアピールとして、手を振って示すその方の動きを私の両手で制止するが如くのポーズを取ってから
「私たちは他者の言葉に耳を傾ける事はとても重要な事です。
このように今私は一方的にお話をさせていただいていますが『きく』には数種の漢字(聞・聴・訊)があって、人と人とのコミュニケーションを醸成するためにそれら一つ一つは欠かせないことなのです」(「それができないことはいかにも情けないことですよ」とは言いませんでしたが)と私のお話タイムを終了させていただきました。
その私の話になった際「これはヤバイ」と思われたのか、後方一番奥にスタッフが集まりだしたことは確認しています。
まさか私が葬儀をぶち壊しにしようなどとは思っていませんのでその点はご心配なく。
ただしそれ以後の事は分りませんが。
帰宅して「元の教育者、地区の名士」という方・・・一律「なんでこうなるの・・・」と「顔役の老害」というものを感じました。
式の主役はつまるところ斎場の壇上の故人です。
故人の遺徳を偲びその死を悼むのがその場の空気なのですからね。
自身が式参列を依頼された段階でオーバーペースで張り切りすぎてしまったのでしょうかねぇ。
まずその手の方々は永遠に「自分が主役」であると勘違いしているのかも知れません。
時と場合によっては「レジェンド」なる好意的評価もされるようですが、そういう方が王様の如く「君臨」していてはあとに誰も続かないでしょうし、「人」というものを育てることはできませんね。教育者ならその件ご理解いただけないものか・・・
難しいですね。齢を重ねるということ。「誰か言ってやれ」というのも正論ですが案外その「耳」を持っていないという悲劇も重なります。
しばしば人はオーバーコントロールに陥るのですね。
私が思うその時の私の姿、スタンスは「みまもる」こと、そして「わきまえること」でしょうか・・・
時として「沈黙」することです。
きっと「何もわかっちゃいない」のですから・・・
さて、昨日は拙寺の「生々流転」墓の繁盛ぶりを紹介しました。そしてその様子を見て「これは・・・」と思った方もおられるでしょう。
これはペット墓は宗教活動とはいえず「動物の骨を保管する倉庫」との判例があっていわゆる収益事業・・・課税対象であるというものです。
そうなると申告義務があり、勿論それを申告していない私は脱法行為と連想するのがスジですね。
とはいいながらも(ペットであっても)「宗教活動である」(課税は違法-お相手は東京都-)という最高裁判例があります。
東京墨田区の「諸宗山無縁寺回向院」、ご本尊は阿弥陀さんのお寺が勝ち取ったものですが当然に主張としては「宗教行事か否か」ということが焦点になりますね。
こちらのお寺は「江戸庶民の聖地」といわれるほどに民間救済の寺(無縁死者の大量受け入れ)として歴史の古いお寺で、そもそもその「ペット」を通しての仏縁は寺の仕事として江戸期から伝わる宗教行事だったのでした。
拙寺の「生々流転」墓の歴史は浅いものがありますが、そもそも発端は仏縁。愛するペットの死を通して、正信偈を拝読し家族ご一緒にと念仏と浄土を味わっていただくというものですから、収益事業であるとの御指摘はあたらないでしょう。
まぁこちらのお墓の設置に関して檀家さんからのリクエストがありましたが、私的には「ちょっとしたお遊び」といえばお叱りを受けましょうがあくまでも仏縁促進の機縁素材です。
では参考までに収支台帳をお示しを・・・というのもスジですね。
「お遊び(余興)」の代金(墓石代と工事費)は約100万円の経費を計上、納骨法要費用は檀家さん1件1000円(外部5000円)ですので維持費を除いたとしてもこちらをプラスにするために単純に計算して100年近くはかかるでしょう。
これを宗教行事といいますし課税対象にはならないことは必定です。
画像、この壇上の主役は彼女です。温泉地にネコはつきもの。
昨日も有馬温泉の悲報(ネコと人がガス噴出による死亡)のニュースがありました。
この時期特に外で生活しているネコにとっては温泉地は暖を取るには持ってこいの環境でしょう。
彼女は2歳でこの足湯場に2年前に捨てられていたとのこと。
ネコを「うっちゃった」であろう人間も、ネコの以降生活が少しでもラクにあるよう期待する部分があったのかも知れません。
まぁ勝手なことですがね。
それをこの足湯の近くに住む方が自宅に招き、避妊手術を施したとのこと。耳の切りこみでそれがわかります。
既にお腹の中に5匹の子猫がいたそうで「1匹500円の供養料」を支払って引き取ってもらった」と。それ以上の事は聞きませんでしたがお寺関係に引き取ってもらったか・・・
ところが彼女はこの最初に住まった場所が忘れられず、どうしてもこちらに戻ってしまうとのこと。外気は氷点下にもなる場所ですが。
さすがにお湯には浸からないようですが屋根があってジワっと温かいこの場所こそ最高の住環境なのでしょう。
何よりも彼女は気が付いた時にはここにいたのですから、まさに生まれ故郷なのです。ちなみにこちらは鳳来寺山の東側、宇連川沿いの温泉地になります。
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