昨日は「幸福」のハードルが限りなく上がったことを記しましたが「横川法語」の中にはその件ストレートに記されています。
それは当流ご開祖指定「七高僧」のうちの一人、本邦「源信」さん(恵心僧都~源氏物語 横川僧都のモデル)が記したと言われています。
ごく短い文ですが、まず以降続く浄土阿弥陀世界を説く僧たちの根本理念となったことは間違いないところ。
「まづ三悪道をはなれて人間に生るること、おほきなるよろこびなり。
身はいやしくとも畜生におとらんや。
家はまづしくとも餓鬼にまさるべし。
心におもふことかなはずとも地獄の苦にくらぶべからず。
世の住み憂きはいとふたよりなり(昨日ブログ)。
このゆゑに人間に生れたることをよろこぶべし。
信心あさけれども本願ふかきゆゑに、たのめばかならず往生す。念仏ものうけれども、となふればさだめて来迎にあづかる。
功徳莫大なるゆゑに、本願にあふことをよろこぶべし。
またいはく、妄念はもとより凡夫の地体なり。
妄念のほかに別に心はなきなり。臨終の時までは一向妄念の凡夫にてあるべきぞとこころえて念仏すれば、来迎にあづかりて蓮台に乗ずるときこそ、妄念をひるがへしてさとりの心とはなれ。妄念のうちより申しいだしたる念仏は、濁りに染まぬ蓮のごとくにて、決定往生疑あるべからず。」
以上が「横川法語」でありますがデキの悪いやはり「妄念」の塊の如く凡夫の私にはすこぶる「やさしさ」をも感じます。
そして「幸福」のハードルの件。
法語には「よろこび」という文字が3回ほど出てきますが、その「よろこび」こそが「幸福」であるということはどなたも異論がないことだと思いますが、すると「よろこぶ」=「幸福」とは
①人間に生まれたこと
②阿弥陀仏の本願にあうこと
なのですね。そしてその他の色々は「妄念」ということ。
しかしその「妄念」=「人間」であるのもすでに御見通しのよう。
それでもその自身の姿を心得てただ「念仏申せば」「仏となる」のだと記しています。
上記、源信以降の浄土教理念への影響を感じると記しましたが①②の件、蓮如さんの御文、三帖-四「大聖世尊」冒頭でもわかります(私はこちらを「通夜の御文」として拝読しています)。
「まれにも受けがたきは人身、あいがたきは仏法なり」
ですね。
そのあとに蓮如さんは厳しくもより踏み込んで真宗の本質を語ってくるのですが、この①②の「有難い」(有ることが難しい)ことに出あったよろこびは基本中の基本なのでした。
そうですね。本来の人の幸福とは①②の事なのでした。
人間を取り巻く環境がコンビニ的進化パワーアップし、その妄念がひたすら幸福というもののハードルを上げて行ってしまったというワケです。
さて、拙寺は御文は散らかるようにここかしこから出てきますがそれぞれかなりの痛みがあります。
各御家庭御内佛にも大抵はその御文が備わっていますが、まずは近年の「五帖の御文」(一帖~五帖のうち)ですね。
その件は致し方ないにしろ拙寺には一如さん(1649~1700)のそれらがものが多いのですが、古いモノですと顕如さんの「五帖」が一冊、こちらは初代の今井権七が直接顕如さんから頂いた家宝となっていますが、もう一つ「お宝」としてあるもどうしていいかわからない御文があります。
それが教如さんの「帖外」というか各ミックスされた御文です。教如さんは東西分流し東本願寺に分かれた際のその初代で、武闘派であり秀吉嫌い、家康に向かった人でした(顕如さん教如さんについてはこちら)。
この御文は大切にしていきたいのですが、さすがに400年の歳月と実際に使用したものですので手垢にもまみれてボロボロです。
①は教如岩麓の石標(教如の里)②は教如さんの書状、こちらは教如展にて。③~⑤が御文。
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小山昭治 (水曜日, 14 2月 2018 11:50)
イイ御文ですね。
心に滲みます。凡夫なればこそ迷い悩み
それでも人間として生まれ死んでいく。
その後は阿弥陀仏の救いを信じるのみ。
次の世は次の世でまた生きていく。
所詮凡夫の生き方はこれしかナシ。
今井一光 (水曜日, 14 2月 2018 12:18)
ありがとうございます。
横川法語は何よりも内容がわかり易いですね。
阿弥陀仏の優しさ漂う広大な包容力に「安心」を得ることができます。
「有難い」の一言です。