昨日は「除夕の鐘」で雨中ご苦労いただいたスタッフを集めての慰労昼食会がありました。
婦人部の主催で会費1000円、それも平日の会食でしたが、たくさんの方たちにご参集いただきました。
「またうまいことやれたら、お願いします」ということで今後の各イベントの協力を依頼しました。
皆さんが集まるという機会が、このようにあるということはなかなか奇特なことで寺として有り難いことです。
さて、ついでと言っては申し訳ありませんが、篠村八幡宮裏旗立場から亀山城に向かう途中に馬堀城址がありますのでその時は周辺をブラつきました(場所はこちら)。
私は都合3度、このあたりに来ていますが、最初に行ったのがトロッコ列車を使用してのファミリー向けツアー。
一泊二日のお寺の旅行でした。バスを嵐山で降車、バスには先回りして亀岡で拾ってもらうという算段です。
あの頃は旅行会社丸投げでしたからその手の企画を受け入れていましたね。トロッコは1度乗れば十分、以降自家用車での利用です。
しかしあの時は忘れもしない4月前の大雪で、その晩は松園荘保津川亭という旅館の雪の露天風呂を満喫しました。
その時の画像が最後の2ショットです。
馬堀城はそのトロッコ亀岡駅からも近くですが山陰本線の馬堀駅の真ん前にあたります。
以前、城だ寺だのが「割を食う」(破壊されるなど)機会を羅列していました。たしか、①応仁文明の乱②明治維新③住宅④道路の建設と記していましたがコレを忘れていました。鉄道ですね。長篠城も同様でした。
この山陰本線の敷設にあたって馬堀城の一部は削平されていることが窺えます。城の名前「馬堀(うまほり)」の如く、堀や土塁など感じられるものが見当たらないからですが、城館(本丸)推定地としては駅前を通過する道から見て明らかな段丘が目に入りますのでその上になりましょう。
他にはさしてここがかつて城であった的な案内があるワケでもありませんが、古い航空写真というものがあるらしくそれには北側今の駅舎方向と東西には堀跡がしっかりと写っていたそう。
北側の低地は城の西側から北の桂川に繋がる「西川」という河川があって堀はその流れそのものかその川からの水を利用していたのだと思います。
昨日は亀山城の五層化について記しました。
詳細不明であることを記しましたがこの馬堀城についての日本城郭大系からの記述に興味深いことが記されています。
「山田金左衛門家文書」からのものですが、天正年間にこの城に城割代官山田五兵衛という人物がいたといい、馬堀城が亀山城五層の天守築城のための大工村となっていたそう。
そして天守の完成後その山田家は城の秘密保持のために「消された」可能性があると。
天守絵図面の提出を命ぜられたということと、山田一族の名も消されて「男子が姿を消した」とありました。
言い伝えで「山田の男子は亀山城の堀の鯰になった」とあるそうでなにやら、かなりおどろおどろしい。
人身御供は若い女子とのお決まりはありますが、当初の五重天守には表に出せないような秘密があったのでしょうか。
城普請で口止め一族男子皆殺しという例は聞かないですね。
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