亀山城縄張りはそれぞれ城主普請造営の結果

こうインフルエンザ蔓延の脅しを受けているとちょっとした買い物にも覚悟というものが必要になります。

昨日は風もなく地代の山の墓参りはまったく問題なくこなすことができましたが法事以外の時間は「不要不急」と断じで籠城を決め込んでいるところ。兵糧に関しては十分確保されていますからね。

特にダイコンの差し入れは有難いことです。

 

先日も記しました鏡餅の残りをバラして焼いて食べ続けるというのはあまりにも不健康すぎでした。

固さがゆえに口の中は切れやすく消化も悪そうで胃も荒れがち、特に私は醤油をつけて2度焼きするのが好みですが、塩分過多の様、心なし頭の血管が硬直しているような気にもなってきます。第一に飽きというものもありますが。

今後はもうしばらく放置してから揚げ餅にしてもらいましょう。

 

さて昨日は亀山城の石垣の図を並べました。

その名が色々と紛らわしいと記しましたがこの城の別名にもう一つ「亀宝城」という名もあることも付け加えます。

まぁ「興ざめ」の事案がありましたがあの復元石垣の上には当初三重、のち五重の天守が載っていたといいます。

これは一説に当初は明智光秀の築いたであろう「三重」をきっと「縁起が悪い」と思ったか「五重」に建て替えたとあります。その改変を行ったのが「金吾中納言」(小早川秀秋)といいますが、詳細は不明です。

 

「丹波中納言」となった彼は秀次事件で亀山城を没収されて以来秀吉時代は城番制となっています。

没収とはいえ「中納言」は「筑前」→「岡山」と領地は拡大していったことは周知のことですが。

 

亀山城といえば明智光秀の城とあまりにもイメージの強いものがありますが小早川秀秋の城であったことも確かなことでこの秀吉が可愛がって(高台院の兄の五男)養子にまでした男をこの亀山に入れたということもそちらの地の利の良さに着目した故でしょう。

山陰道の押さえでもありますが、すわ京都という場合の後詰には最適な場所になりますね。

 

信長の場合はその地の利を逆に取られたワケですが、その意味からすると当初は信長の腹積もりとしては光秀の評価と信用は極めて高かったものと思います。

その後の信長の心変わりの有無とその微妙な変化への彼の心底の感触は無視してですが・・・。

 

秀次に次いで豊臣家のNo.3とまで将来有望視された彼の前はといえば「両秀勝」が入っています。紛らわしい「秀勝」ですが最初に入ったのが信長の四男の羽柴秀勝。

秀吉後継者として信長から養子としたのですが、実を言えばあの毛利攻めの中国大返しの際にも秀吉に帯同していますので天王山直前には信長の遺子二人(→三男信孝)の二枚看板があったワケです。

タラレバですが彼が十七歳で病没していなかったとしたらまた違った歴史があったかも知れませんね。

 

その秀勝の後に入ったのがやはり紛らわしいですが豊臣秀勝で、

秀次の弟です。彼もまた朝鮮出兵時に病没してますので、秀吉の「後継」という点でも秀長はじめ、ロクな事がありませんでした。

ちなみに「秀勝」といえばもう一人、養子ではない夭逝した子供がいましたね。

 

亀山城代には前田玄以・茂勝→北条安房守→権田小三郎と慶長十四年まで、その後天領そして岡部長盛、松平成重、菅沼定芳・・・久世・井上・青山・松平・・・明治まで続きます。たくさんの城主・城代が関わって後世に続いていましたので長い間に追加改変を重ねていたことでしょう。

カンタンに「明智光秀の城」と言い放つことはムリがあるかも知れません。

 

上記画像は私が周囲散策した際にお目にかかった看板たち。脈略はありません。そして以下画像は日本城郭大系より。

五層の天守がハッキリとわかります。これを見ても明治維新後の施策に恨めしさを感じます。

何よりも現在の亀岡市民がその残念を想っていることでしょうが。

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コメント: 2
  • #1

    小山昭治 (月曜日, 29 1月 2018 11:39)

    三重を五重にすると言うことは「改築」それとも基礎から。
    改築では芯柱?が持つのでしょうか。基礎からだとそんなにお金をかけたのでしょうか。

  • #2

    今井一光 (月曜日, 29 1月 2018 17:52)

    ありがとうございます。
    詳細不明で推測ですが、ケチのついた建造物は一旦チャラにするのではないでしょうか。
    それだけ莫大なお金が確保できていたのだと思います。秀吉の意向がバックにあったと思いますし彼のカネの使い方は常軌を逸していましたね。
    ちなみに秀次に与えた聚楽第など激情にまかせてすべて壊してしまいましたし。
    朝鮮出兵のための名護屋城もその手の酔狂でしたね。
    また木造建築物でも各所無理が掛っている城郭ともなれば、経年による劣化もきつくまた
    城主城代があれだけ変わっていれば自身の趣味に合わせて改築を重ねていたことは確実です。その細かな資料が残っていないということで「不詳」なのですね。
    よって最後のカタチがいつ頃のものかというのも断定が付きにくいかと思います。

    戦国期からの現存天守が極めて少ない理由がそれですね。
    当初のものであるという「証拠」がないと認定は難しいものでした(松江城)。

    光秀の「三重」を壊して今治城天守を移築したという説もあるようです。