水盤のガチガチに凍った氷をメダカにはさぞ息苦しかろうといつもより力を込めて割っていると水屋の近くの石うすに張った氷の上にツグミが見えました。
確実に季節は進んでいるのでしょう。
口を「つぐむ」彼らからの耳からその告知はありませんがあの丸くて可愛らしい存在だけでもほんのりした何かを感じることができます。
そしてまた彼らがこの地を離れる頃のイベント、センバツ高校野球の代表が決まったとのこと。
静岡では下馬評通り静岡高校はスンナリでしたが、驚いたのは私のお楽しみの場所、滋賀県からなんと三校が選出されたこと。
そんなことがあるの?と耳を疑ったほどです。
その中で大津の膳所高校が出てくるそうですが、その判読難解文字を全国に宣伝するチャンスですね。静高と同じ進学校とのことでやはり贔屓にしたくなります。
さて
「昔より 主を内海の 野間なれば 報いを待てや 羽柴筑前」
と詠んで腹を切った織田信孝の発行文書があります。
こちらは天正十年五月十四日に織田(神戸)信孝が丹波の国侍に宛てて発したものといいます。
例の本能寺の件が六月二日ですから殆ど直前のことですね。
当時信孝は長宗我部征伐のために大坂住吉にいて、その内容は若干理解に苦しむところです。
それは丹波本領の明智光秀を通り越して信孝が直接「配下招聘」を号するものですから。
この文書は個人所有のもので亀岡市の史料ですがこの原本はこれまで表に出て居ず、「影写本」のみ存在が確認されていたもので信憑性に関しても今一つでした。
しかし本能寺に至る説多々ある中、古くから定説のようにあった信長に「丹波を召し上げられた」からをフォローするには十分すぎるほどの史料です。
信長からすれば光秀の尻を叩く意味で「毛利領切取り次第」をぶち上げたということではありますが。
史料の真贋も含めてまだまだ「その理由」(「本能寺」)は判明しませんね。
彼にこの地に特別な思いがあったとも考えられませんし、所替えなどは常識世界ですからね。それを怨恨に持つなどはちょっと・・・。
まぁ光秀は信長の命によりこの地を攻略していますが、天正三年から始めて相当の苦労を重ねています。
調略と力攻めの連続だったようですが、最後に波多野秀治の篠山の八上城を落としたのが天正八年と六年の年月を要しています。資料館の案内には波多野氏の他に黒井城の荻野直正、八木城の内藤氏など在地領主に散々に手こずっていた事が記されていました。
①は昨日の流れで(京都の桔梗寺の一つ 廬山寺)を記しましたが~ちなみに遠州の桔梗寺というと香勝寺~実際に桔梗をアップしていませんでしたのでこちらに。
色味がイイですね。今年あたりチャレンジしてみましょうか・・・
あの水色の桔梗の旗差しものを見た時の信長の地団太が想像できますが、いつも記していますがそのおかげがあったからこそ「浄土真宗」が存続できたようなもの。
「主を討つ」という事の暴挙を言われますがそれは後講釈。
画像は虫に食べられている花の様子ですが、その一番に「おいしいとこどり」をしたのは秀吉でした。
秀吉が天王山に向かうに掲げた旗印は主君信長の「敵討ち」。あの際奉り上げていたのは何を隠そう織田信孝でしたからね。
もはや邪魔になって葬ってしまう段、信孝にあのような辞世を詠まれては祟りなどを信じない者であってもの後の豊家滅亡に「そうであった・・・なるほどね」と回顧させることでしょう。
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河東村出身者 (日曜日, 28 1月 2018 09:48)
関西の大学に行っていたので彦根東も膳所も出身者が多かったのですが、まさか高校野球で、しかも同時に話題になる日が来るとは思いませんでした。
今井一光 (日曜日, 28 1月 2018 20:40)
ありがとうございます。
関西でしたか。
するとお笑いのセンスも磨かれたでしょうね。
それにしてもその高校のお友達多数ということは・・・
かなりの優秀さを推測します。