昨晩はあまりの寒さにハイビスカスの退避部屋にストーブを持ち込みました。
既に数本の株が枯れ状態になっていることからですが、奥方は「それも詮なきこと」といたってクール。
彼らを失えば私の夏の楽しみが減ってしまいますからね。
私はここ数日の寒波を何とか過ごせればと別棟の無人の部屋に「火」をいれる冒険をしています。うまいこといってもらえればば有り難いことです。
彼ら植物たちの存亡が私の掌の上にあるというのも不自然なことですが、このような寒さなど彼らには知る由もないことです。生き物ですから死することは致し方ないこととはわかっていても手を伸ばしたくなりますね。
ただし彼らの場合、最低一株でも残れば再生することができます。時間はかかりますが・・・人がひと手間掛けさえすれば命は繋げていくことができるのです。
そして人間はといえば遺伝子としてのバトンタッチはありますが、個体としては「必ず滅びる」のが必定。最近はクローンから各再生医療も囃されていますがその「諸行無常」というものを感じざるを得ません。
昨晩のNHK衛星放送の「弥生時代の人々は現代人よりも健康だった 女王卑弥呼のカミカミ健康法」を視て大いに納得。
この時期恒例の有り余って手に余るカチカチの鏡餅を手許のストーブで焼いていますがその「カミカミ」をしながらの視聴でした。
番組では弥生期の良好に形状を遺す遺骨が多数発掘されたことからの医学界からの検証を伝えていました。
「無常」とは「変化」の事ですが、日本人に限って言えば江戸時代以降現代人に至るまでドンドン顎が小さくなって「変化」しているとのこと。それは激変のレベルの様。
そもそも顎がデカくなるということは肉食・・・良質なたんぱく質を摂取するようになった「食の変化」がもたらしたといいます。調理の不十分な固い肉類に喰いついたことからその顎の発達は始まったといいますが、以降イノシシを飼うようになって良質たんぱく質摂取の習慣化があり、いよいよ健康長寿の元となったといいます。それは魏志倭人伝に「倭人は長寿で百歳の者も・・・」といった記述があることから。
発掘の現場では飼育されていた頭蓋骨のイノシシが多数出てきたと言います。飼育モノか野生モノかの判断は頭蓋骨の首の部分の発達が違うと言いますから多量遺物の比較、考古学がいかに説得力を深めるかがわかります。
またよく「貝塚」等の海洋たんぱく質摂取の痕跡を見ますが彼らが常時海に潜水していた事が分かったそうです。
それは「外耳道外骨腫」(サーファーズイア)のある頭蓋骨が出てきたそう。
慢性的に冷水にあたる人がよく発症するものですから潜水による漁としか考えられませんね。
考古学に医学という科学の力が切っても切れない事、そして考古学が未来の人の道をも示唆する学問であることも認識しました。
要は良質たんぱく質を摂取しての健康長寿ということですが、番組ではその栄養分が「結核」という流行病を克服できたと。
現代でも結核は過去の病ではなく、発症例は相当数あるようですが、今結核になる人は過度のダイエットをしている人や食の細くなって抵抗力が落ちた人が殆どとのこと。
食べる食べられるということは大丈夫のもとです。
以前は弱音を吐いて倒れている人に「飯喰やぁ治る」と尻を叩いたものですがやはり、なるほど食べれば体が熱くなってきますね。
低体温症対策としても①に冷やさない温める事ではありますが②食べる事が大切といいます。
現代人は特に若い人たちは鏡餅のカチカチを焼いて食べるなどという機会はないだろうと思いますし、良質も良質すぎ、霜降りの柔らかい肉こそが「肉である」と考える人が多数でしょう。
「やわらかい」食感第一の時代であることは芸能人他「食レポ」(大抵は私はチャンネルを変えますが)の台詞「もちもちした」の「おいしい」ワンパターン形容の蔓延からわかります。
「やわらかい食感第一」がこれほどもてはやされるということは固いがダメの風潮に相違ないところですがその美食が私たちの顎を退化させているのでした。
顎の退化は口呼吸に繋がりそれがあらゆる病気に繋がるといいます。
それを改善させようとする「あいうべ体操」(鼻呼吸のすすめ)なるものがありますのでその辺りそちらから検索していただきますよう。
こんな体操があるということは発声ができない、しないという習慣もまたイケないのですが、特に最近は「い」の発音をしないようになったことだといいます。そういえばしっかり腹から発音しないと出てきませんね、その発音。
若い人は形容詞の「〇〇い」を使用しないようです。
「うまい」を「うま~」、「まずい」を「まず~」、「ヤバい」は「ヤバ~」「ヤベ~」、そして「はや~」「おそ~」「くさ~」・・・まぁだいたいまともな会話はできていないような気がしないでもありません。人の事は言えませんが・・・
「あいうべ体操」しましょう。
本日は「鼻」ではなく「優曇華」に続き「華」「花」の件。
「菖蒲杜若は何れ 姉やら妹や」は京鹿子娘道成寺の一節でそのあとに「分きていわれぬ花の色え」と続きます。
元は「太平記」の「何れ菖蒲か杜若」(いずれあやめかかきつばた)で、「優劣伯仲して選択不可能」の譬えですね。
この文言を見ると私はいつも「ちょっとムリ」と思うのですが
「とじゃく」で「かきつばた」、そもそも「とじゃく」は「かきつばた」とは別品種だと言いますし「しょうぶ」と「あやめ」の区別などさっぱり。
画像は相良某家にて。先日の鉄舟のお宅です。
私が一番に「いいっすねぇ」とカメラを向けたのはこの菖蒲二色のコントラストにトンボとカワセミの図。
山水風のものに色味がキレイで美しい。「い」のつく形容詞がいのいちばんで発せられました。
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