六原の歴史 平家長者屋敷→京都守護→六波羅探題

昨日の法事は四日市や犬山からのお参り。

本堂の極寒と風の強さに晒されてとても気の毒ではありましたが、聞けば四日市(3時間かかったと)は小雪交じりだったと。

私はきっと滋賀県側からの鈴鹿おろしの寒気であると、なるほどと相槌し、以前通行した鈴鹿スカイラインの話題で盛り上がりました。どうやらその道路は冬季通行止めになっているそう。

施主は写真撮影が趣味(撮影対象は自然界が主と)でその辺りの山系は日常のフィールドの様。

 

次回は四日市での法事開催を依頼されました。

即了解させていただきましたが6年後です。

果たして私の体がそこまで健常にいられるのか疑問ではありますが、たんたんと「未来に向かって」を心意気に「生かさせていただく」というところです。できれば「生かされる」のところに「強く」とその「生」を強調したいですね。

蛇足ですが先般聞いた講義の中で最近「生きている」の表現をされる場合(只今たまたま生きているという状態)がありますがそれであると「死んでいない」の反対になってしまうので「未来に向かって強く生きる」という気持ちが必要だと。

 

まあそれに「ともに」という語が入れば真宗的な「ご縁」の意味に近くなるかと。

 

「本願を信じ念仏申して仏となる」を一念に「未来に向かってともに強く生きる(生かされていることを感じる)」でしょうか。

 

昨日記した開睛小中学校の元の名は六原小学校。

「六原」の名をストレートにとって東山の麓の「六道輪廻の原」(鳥辺野=葬場)と考えてしまいます。

やはり遺体がここそこに転がった湿地帯をも連想。

だからこそ空也がこの地に西光寺を建てたのだとも。

湿地帯だったとの連想は鴨川の近くであり(鴨川は古来は東山丘陵にもっと迫っていたと考えます)、昨日記しましたよう平氏からみの邸宅の名が「池殿、泉殿」で水量豊富をイメージします。

また、現在の六波羅蜜寺が小学校解体工事の際、振動の影響でかなり揺れて被害があったと聞きますので、この件からも地盤があまり良くないことを思います。

 

その六原葬場の地に平家が屋敷を建てた理由は、渋谷道の監視を兼ねたところもあったでしょう。そして南北に交差する東大路通を考えれば洛中入京の要所ですね。

その平家中枢の邸宅群の地の名称を六波羅と呼び、平氏が西国に落ちる際に焼き払ったこの地に頼朝が「京都守護」を設けその後にお馴染みの「六波羅探題」という機関が出来上がったのでした。