昨日2件の20代のやらかした交通事故事案について愚息の顔を思い浮かべてつい念押しのメールに指をかけてしまいました(以前でいえば「筆をとりました」)。
一つに川崎の女子大生がスマホ片手で自転車を運転して77歳のお婆さんに衝突して死なせてしまった件。
親としては「勘弁してもらいたい」愚行です。
言葉を変えて言えば「殺人」と罵倒されても致し方ない事案。
そして私自身の件もあわせて。
自動車運転中にスマホの着信、メール含めつい反応してしまいますからね。
それにしてもその書生さんは行為の重たさを生涯背負いながら賠償の責を負っていくワケですが果たしてそれぞれ「支払い」きれるものでしょうかね。
ちなみに私はハナから愚息の行動などを信用していませんから自転車運転時の対人対物保険には入って毎年更新しています。
二つめは東名日本坂の逆走?衝突事案。
詳細は断定されていませんが、状況から殆ど「逆走」でしょう。25歳の若者の運転と聞きます。
自身も亡くなってかつ衝突したトラックの運転手も亡くなって惜しい命が悔やまれます。
夜9時に全面通行止めは解除されましたが約6時間は日本坂トンネルから静岡インターまで車両は缶詰状態になったでしょう。
たまたま私は前日、八王子からの帰りにまさにそちらを通過していましたので、衝突されることも含めて、「冗談じゃあない!!」と呆れ果ててしまいました。空からの画像で現場が手に取るようにわかりました。
年配者の逆走事件をとやかく思案して、免許証の返納を奨励する動きがありますが、何の事はない20代の若者であっても「勘違いはある」、よって行き着くところ「自分ほど信じられないものはない」になってしまうのです。
この件、スポーツ選手がよく仰る「自分を信じて」の談、秘かにほくそ笑んでしまうという私がいるワケです。
まぁもし錯誤によって逆走しこの悲劇を惹起させたとしたら誠に不幸で悲しむべきことではありますし、道路公団はもっともっと逆走勘違いの対策について検討する必要がありますね。
両事案も人間思考力の曖昧さや限界について今一つ社会があらためて考えていく必要があると思います。
さて、人間というものの限界、自我のありさまを知り(はからいを捨てて)、その「ありのまま」を認めて「まかせる」(如来に)ことを「自然」(じねん)と呼ぶと先日「首」のところで記しました。大河ドラマでもその「自然」出てきましたね。
この「自然 じねん」はいま普通に使用されている「しぜん Nature」と微妙に意味が違います。
コレは浄土真宗の宗旨3本柱の「悪人正機」と「他力本願」と「平生業成」をミックスして一言で表していると私が勝手に思い込んでいる「自然法爾」から。
その「自然法爾」という語は勿論宗祖親鸞聖人86歳時の語で『親鸞聖人御消息「自然法爾の事」正嘉二年(1258年)十二月十五日』に。
どこかで記したと思いますが、お粗末にも忘れました。
ここでまた私の覚えとして転記します。
『 自然法爾の事
「自然(じねん)といふは、「自」はおのづからといふ、
行者のはからひ(思慮分別)にあらず、
「然」といふは、しからしむといふことばなり。
しからしむといふは、行者のはからいにあらず、如来のちかひにてあるがゆゑに法爾といふ。
「法爾」といふは、この如来の御ちかひなるがゆゑに、しからしむるを法爾といふなり。
法爾はこの御ちかひなりけるゆえに、およそ行者のはからひのなきをもつて、この法の徳のゆゑにしからしむといふなり。
すべて、ひとのはじめてはからはざるなり。
このゆゑに、義なきを義としるべしとなり。
「自然」といふは、もとよりしからしむるといふことばなり。
弥陀仏の御ちかひの、もとより行者のはからひにあらずして、南無阿弥陀仏とたのませたまひて迎えんと、はからせたまひたるによりて、行者のよからんとも、あしからんともおもはぬを、自然とは申すぞとききて候ふ。
ちかひのやうは、無上仏にならしめんと誓ひたまへるなり。
無上仏と申すは、かたちもなくまします。
かたちもましませぬゆゑに、自然とは申すなり。
かたちましますとしめすときには、無上涅槃とは申さず。かたちもましまさぬやうをしらせんとて、はじめて弥陀仏と申すとぞ、ききならひて候ふ。
弥陀仏は自然のやうをしらせん料なり。
この道理をこころえつるのちには、この自然のことはつねに沙汰すべきにはあらざるなり。つねに自然を沙汰せば、義なきを義とすといふことは、なほ義のあるになるべし。
これは仏智の不思議にてあるなるべし。
正嘉二年十二月十五日 愚禿親鸞八十六歳』
12/15はたまたま「本日」ということになりますが、今云う「自然」なるスタンスのあり方の原点は750年以上前に言われていた事でした。
さて八王子の法要は近江より拙寺開基と同行した野村家の流れ。一昔前までは本通りの「野村先生の家」で通じた野村家ですが縁あって都営の八王子霊園に墓石を新設することになりました。
その石標がイカしています。
昭和五十六年に往生した操一郎氏の記した「自然」の文字を石材店にそのまま彫りを依頼したとのこと。引退後は自宅で書にいそしんでいたそうです。
当流、ことに拙寺境内の墓碑銘は①に「南無阿弥陀仏」の六字
②に「倶会一処」③に「骨塔」稀に「○○家」というのもありますがこの「自然」、あらためてこちらで拝見し「こりゃあイイ」と諸手を挙げて喜んだ次第です。
八王子の霊園は以前記した東大谷墓地の「続・夕陽のガンマン」の彷彿以上の墓だらけの様相でしたがそちらの墓碑は殆どが「○○家」でしたのでその墓碑はかなり光っていました。
これから墓碑を新調する方は是非に参考にしていただきたい文字ですね。宗祖の意向が詰まっています。
③は高尾駅駅舎。イイ味出しています。
④⑤高尾山入口のこちらのお店でお斉の会食。
楽しいひと時でした。
もしも一日ずれていれば八王子インターの工事が始まりますのでこちらの到着にも影響があったはずです。
まさにベストタイミングでした。
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野村幸一 (金曜日, 15 12月 2017 01:36)
小説家か芸術家のようなお墓ですね。洒落てます。操一郎さんは達筆なのですね。こちらのお墓は操一郎系のどの流れになるのか気になります。
今井一光 (金曜日, 15 12月 2017 08:25)
ありがとうございます。
私も初めてこの書の存在を知りました。
檀家さんに「何か墓碑銘にいい文言はないか」と聞かれることがありますが
是非すすめてみたい言葉です。
小山昭治 (金曜日, 15 12月 2017 13:44)
いい書ですね。
家の中を捜した甲斐がありましたね。
これで取りあえずの一区切りがつきました。
郁男さんも孝君も男の先生(操一郎さん)も女の先生(おきん先生)も
喜んでいるでしょう。
今井一光 (金曜日, 15 12月 2017 15:48)
ありがとうございます。
いいご縁をいただきました。