朝一のテレビで大谷翔平投手のエンゼルスへの移籍入団会見をチラッと見ました。
法事前の時間でゆっくりと見ていられませんでしたが、「どうしてエンゼルスに決めたの?」という質問があって、彼はその返答としてたしか「縁」という語を使っていました。
私からすればその言葉はごく普通で当たり前ですが、果たして米国人にそれが理解できるのか、そしてその語をどう英訳せばいいの?という具合にニヤリとしてしまいました。
「縁」と一言でいえば「言葉では言いようのないちょっと不思議な出値い」という感じですが、「あう」には数種の文字があてられています。
真宗系の語では「まうあう」(あいたてまつる)なる語がありますがそれは「まうあふと申すは、本願力を信ずるなり」から。
ウィキアーク(WikiArc.wikidharma.org)には
「逢は出逢う、その時節に逢う。値は、チョクと読むときは真っ直ぐにあたることで、チと読むときは値(あ)う、あたる、あたいするなどの意でぴったり出値い、いきあたること。
遇はたまたまとも訓ずるように、途中で予期せずに、ひょっこり遇(あ)うの意」とあり、また「古語の『あふ』には、こちらが相手に会うのではなく、相手がこちらにやってきて出くわすの意。尊い方などにお会いする。会わせていただくの意味がある。」とも。
「であい」や「御縁」にもシチュエーションによって字を使い分ける深いセンスのようなものがありますが、そんな微妙な雰囲気を理解するのも他人様に説くのも面倒くさいことでもあります。それが「縁」でした。彼の御縁、応援したいですね。
さて都内の宗教法人の刃傷事件について、加害者の遺書のような書面についての報道がありました。
「スゴイな」と思った点はたくさんありましたが特に「自分が死んだあと指示、記した通りに事が運ばなかったら・・『祟る』」の「その後」の脅迫には「おそれ入谷の鬼子母神」。
私がその「へ~え・・・」と思ったことと言えば
①「神道では祟りの概念が未だある」
②江戸っ子なのに「祟り」とは・・・
でした。
①の「祟る」というのも一言でいって「であい」と言っていいのかもしれませんがそもそも真宗的にいって死した時こそ「安心安寧の極楽浄土」にしか向かいませんのでその語の感覚はまったく無し。
それは「妖怪となって悪さをするぞ」の件を含む言葉ですがそもそも「人」にそのような能力など持ち合わせていない(~皆同じ)というのが当然なる考え方。
菅原道真にしろ崇徳上皇にしろそれら怨霊伝説など根も葉もないこじ付けとしか言いようがないような・・・。
何か都合の悪い事がおこると「あるもの」に責任を押し付けようとする感覚があることは私自身含めていえることですが・・・。
②の「江戸っ子」という語は曖昧ではありますが、私は往生際の悪い奴は「虚仮未練な・・・」と江戸界隈の気風のイイ人たちには揶揄されかねない心情の吐露だと思っていましたので・・・。
たとえば弁天小僧が浜松屋で化けの皮が剥がされて開き直りの騙り口に「首になっても御礼には、きっとお屋敷へ行きやすよ」と言った際、同行した「大磯小磯小田原かけ・・・」の南郷力丸が「こけ未練な・・・命が惜しいようでみっともねぇ・・・」と諭していましたね。
結果として「死ぬ・死なない」はともかくとして、「死んだあと」の事(実力行使)を騙ることは「みっともない」おはなしでした。
ちなみに真宗は後生は阿弥陀さんに任せる、コレ当然でした。
ここのところ着手していた鐘楼の階段の手すりの完成画像を。
以前の状況はこちらです。
世話人会で現状左側だけの手すりを「もう一方もつけた方がイイ」という指摘があったからです。
その場でまごまごしていれば、誰がやる彼がやる、誰それに依頼するなどと話がこんがらがりかねないこと、経費の問題もあるので「ハイ私で対応します」と引き受けたものでした。
何かあったら「責任」が発生しますのでその対策は肝要です。
昨年は300人以上の来訪者があった「除夕の鐘」のリスク対応ですが、中には鉄製の階段を新設するという案もあったほどで、その辺り、私のイメージ(今あるもの、自然体)を超えてしまうことから御了見いただきました。
尚、色々と今あるもののみの材料で対応したため手すりに使った材木を1本の手配、498円で済みました。
まぁいとも「ちゃちい」手すりですが何とか躰をなしています。
また、ここで一つ「梵鐘のご縁」の看板なども掲げてみました。
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小山昭治 (月曜日, 11 12月 2017 09:17)
いやー立派な階段です。ご苦労様でした。
鐘を撞きに来て怪我をするなんて割に合いませんからね。
今井 一光 (月曜日, 11 12月 2017 23:49)
ありがとうございます。
なにごともなく無事に、楽しんで新年を迎えたいですね。