蒲御厨 龍泉寺墓地 源範頼石塔

昨晩は夜間のお取り越し。

あの薄っぺらい黒衣に草履姿、駆け足で帰宅してほっとしているところ。

そちらの大奥さんより興味深いお話しをしていただきました。

拙寺の除夜の鐘の記憶を尋ねたことが始まりでしたが若い頃は豊橋に居たのでよく知らない・・・とのことでした。

そこから豊橋であった「ひどい目」について淡々と語っていました。

豊橋あたりであったひどい話といえば・・・空襲の件以外考えられませんので私は「あの豊川海軍工廠」にいらしたの?というとあの時は15歳くらいでその工場で働いていたとのこと。

たまたま大砲の底を作っている部署にいて、そちらにいらした人たちはなんとか逃げ延びる機会に恵まれて助かったとのこと。

 

その方は豊橋に住まわれていてその空襲の前に豊橋を襲った空襲で焼け出されて逃げた先の酒造会社のゴミ捨て場で暮らしていたそう。

焼け出されて逃げる際中に身の回りのものをうっちゃって逃げることが多く、色々な場所に家財衣類が散らばっていてそれを弟が拾い集めて着させてもらったことも。

 

小さい子は空襲警報のサイレン(10回ほど)が鳴り出すと泣き出したといいます。特になるほどと思ったのは各家の庭には当局から防空壕を作ることを推奨されて、まずそんな際は壕に入ることになっていますが、「防空壕」などはまったく気休めで何といっても「逃げるが勝ち」であると仰っていました。運不運がありましょうが豊橋の時は火とは逆方向に8㎞ほど走って逃げたとのこと。

防空壕に入ったままの方は皆黒焦げ。壕から出されキレイに並べられていた遺体を見てそう思ったとのこと。

 

浜松艦砲射撃の際はその音が豊橋まで聞こえてきて、逃げようとすると軍関係者から「これは浜松ですから安心してください」と放送があったとのこと。

「安心してください」は余計なことですね。浜松でもたくさんの市民が亡くなっています。

とにかく一般市民が考えたそうですが豊川には軍需工場、豊橋には歩兵第18連隊と工兵隊があったのでいつかは狙われると予想していたようです。

 

ちなみに有視界飛行によって爆弾を落とすことを記したことがありますが、晴れた日の夜間も危険ですね。

そんな日はまず照明弾をやたら落としてから目視で確認後目的地に落とし、残りは明るくなった地表に向かってハチャメチャに落としていくといいます。

奥さんの言葉は「もう絶対にあんな思いをしたくないし子供たちにさせたくない」と。

 

さて現在の浜松の蒲御厨、蒲冠者源範頼は寿永三年(1184)の瀬田の件で今井兼平はじめ木曽義仲軍を義経と共に散々に蹴散らして滅ぼしています。

その源範頼も頼朝に嫌われて伊豆修善寺に幽閉されたのち謀殺されたというのが定説ですね。

その発端というのも曾我兄弟の仇討ちの際、その場に居合わせていた頼朝もそのドサクサの中で消息不明の報が入り、動揺した頼朝の妻政子に対して範頼が、「私がいるから安心を」風の慰め文句を言ったからだといいます。

この「安心して・・・」の語も本当の「安心」にはなりませんね。

安堵させる意で言う「安心」も使い方を間違えると「カチン」と癇に障ることもあるのです。

 

龍泉寺の墓域には源範頼のものといわれる石塔が立っています。一見、風化が激しいという感がありますが、なによりバランスが悪すぎるということ。

よくも900年近くも立っていられたかという感嘆があるべきで、だからこそ度重なる崩落に耐えて積みなおされてあのようになったのだということでしょうか。

 

見た目は五輪塔形式を主張しているようですが、私が石塔建造者の立場であったとしたらあのアンバランスはあり得ない・・・と思うばかり。

石塔はやはり風化崩壊があったとしても全体シルエットの美的部分は大切だと思います。

ということで私の素人検分では全体石塔パーツは当初からのモノではないか古い時代でのパーツ合わせがあったかも・・・と疑り深く感じた次第です。