本日は虫のイイ、はしたない話から。
叔母は110番さえしなければベストな健康状態(痴呆の出現があります)といえるのです。
まぁもっともその電話を入れるのは超お節介の叔母さんのお友達。
叔母の「盗られた」の吹聴を真に受けて御親切にも菊川署を呼び大掛かりな現場検証と非常線?が張られたのは一昨年。
その後も盗人・夜働きの被害(夢想)について私どもに語ることが度々あってその都度冷や汗をかきながら叔母の元に駆けつけています。
あの日は洗濯物の「下着をやられた!!」と朝一の電話。
電話に出た当奥方は「婆さんの下着を盗むヤツがあるか・・・」と吐き捨てていましたがこれは、すわ!と思い叔母の元に駆けつけた次第です。
叔母は御主人の墓には入らないと断言し、当家代々の墓に入ると遺言を残していて、後生の事は私が取り仕切ることになっています(子供不在)。
今私どもとしてはこの叔母を大事にして是非に「長生きしていただきたい」というところ。
おカネの事でえげつないことではありますが、相続についてはややこしいことは面倒なので寺に「寄進」ということでお願いしたいところで、その意思はこのボロ寺にとっては大いなる有徳人と言ってもいいかも・・・。
かなり前に亡くなった叔母より相当年上の御主人はバクチ好きの一文無し、身上を潰した人でした。
戦前は大きな家で人を使っていた名家でしたが叔父が潰したとのこと。
結婚後は拙寺に出入りして色んなものを持ち出して骨董屋の端くれのようなことをしていましたが、今その借りを返してもらっていると言っちゃあ申し訳ないですが、叔母には私ども家族3人で集(たか)っています。
特に皇宮警察から軍医になって転戦したという経歴を持つ叔父の年金(軍人恩給)は結構なものでそれを資金に叔母に誘われて繰り出す食事会は大層な振る舞い、馳走になります。
時代を経てそんな年給を支給されている人はなくなりつつありますが、これからも叔母を大切にして大いに長生きしていただいてその「果実」を期待したいというのも心根に。まぁお国の(戦争の)ツケがまわりまわって私の口に入りその口が国を罵倒する。因果なものです。
私は叔父が色々なものを持ち出していたことをチラッとは見ていましたが何が消えていったのかは判明できません。
特に家宝である今川義元伝来の皿が4枚知らぬ間に無くなっていますがそれを考えるとおカネではどうにもならない損失ということになります。しかし、いやはやどうにもならぬこと。
叔母さんに鰻重でも振る舞っていただきましょう。
さて、先日記した「御厨」(鎌田)なる語。
字面は「神の厨房」からで「神饌を調進するための領地」のこと。主に大神社の荘園と考えるとすんなり。「御園」とも言いますね。各地にその名を残します。
時代の変遷は平安期の開発領主―大社へ寄進(お墨付き)―在地領主―地頭任命、力関係にて押領支配―戦国期というような感じ。
磐田の鎌田が「御厨」であったというのも源義朝が相馬御厨や大庭御厨などの支配をめぐっての在地領主との関わりがあったといいますので鎌田正清五輪塔のある鎌田の御厨の件、偶然なのか何なのか面白いと思った次第です。
この磐田から天竜川を渡った浜松市(遠江長上郡)に蒲御厨(かばのみくりや)という地がありました。日本大百科全書によると
「西に浜松庄の引間宿、東に池田庄(松尾社領)の池田宿があり、交通の要衝にあった。初め天竜川は池田庄の東を流れたが、河道の変遷により、南北朝時代には池田庄の西、蒲御厨の東を流れて現在に至っている。御厨は大きく東方・西方に分かれており、西方にあった蒲神明社が伊勢神宮の現地経営の拠点であった。
蒲神明社検校(けんぎょう)はこの地の開発領主の後裔とみられ、免田をもち、神供田を支配するとともに、鎌倉時代には地頭、北条氏のもとで代官を勤めた。やがて元中八、明徳二(1391)に足利義満が地頭職を東大寺に寄進した。
東大寺のもとで室町中期には守護斯波氏の被官応嶋(越前の国人)や三河吉良氏の被官大河内などが代官職を請け負い、御厨西方および東方の諸公文の動きと相まって複雑な情況を示した。
東大寺への年貢は麦109石余、豆176石余、定役(実体は不明)125貫余などが主たるもので、米は少なく畑作が優越していた。康正二年(1456)に起こった蒲諸公文百姓らの引間市土倉襲撃事件は、徳政一揆として著名である。[大山喬平]」
とあります。
この蒲御厨(かばのみくりや)にて育ったのが源義朝の六男の源範頼でした。源頼朝の異母弟で源義経の異母兄にあたります。
蒲冠者(かばのかじゃ)蒲殿(かばどの)の別称があるのはその蒲御厨にちなんで。
伝承では彼は神官系から在地領主化した蒲氏との関係が深くこの地の飯田稲荷山という地に屋敷があったよう。
この屋敷跡といわれているのが飯田の地、稲荷山龍泉寺(場所はこちら)。
①に「上飯田学校跡」とあります。
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クリクリ (土曜日, 25 11月 2017 09:32)
鎌倉というよりは、平安時代末期でしょうかね
さすがに900年ほど前となると資料も少ないのでしょうね
天竜川も大井川も今では想像できないぐらいの流域だったのでしょうね
今井 一光 (土曜日, 25 11月 2017 15:46)
ありがとうございます。
武士団の台頭してくる以前は京都の寺社による領地荘園の体制は曖昧ながら穏便にコントロールされていたのでしょう。
また、天竜川など頻繁に荒れていたようですし川のコントロールという点では古来よりご先祖様たちは相当な難儀を強いられていたことでしょう。
台地に居れば水が得られない、平地に降りれば流される、その中で平地に生活する知恵を身につけていったのも歴史ですね。