近代の棚草の牧野氏といえば・・・種子島

本当はあの「座間の件」には触れないでおきたいというのがどなたでも思う所ではないでしょうか。

我が国で私の知っている限り、初めてのタイプの犯罪でした。

理解に苦しむ事案で、これを何でもかんでも私たちや周囲の環境、そして国の施策が「病んでいる」という言葉だけで片づけていいものかと感じて少しばかり触れてみたいと思います。

 

この件「病んでいる」からという結をもってこれで「仕舞い」にしてしまうということはそれは社会の逃避ですね。

そしてそれは何よりも「私は健常ですから・・・」であって「関りが無い」「世界が違う」の吹聴に他なりません。

同じ社会にいる者としてこの件の特殊性をもって「他人事」として忌避していてはこの社会はきっとうまく回らなくなりましょう。

 

特に僧籍にある者として特大強烈な反省は絶対に必要でした。

何より寺として真摯に仏道を推奨する者の道場(お寺の本堂)には若者たちの姿を見かける事はできませんが、あの男の発するネット上媒体は開設間もないサイコな道場に多くの若者たちを集め、大層な「繁盛」の躰を見せていました。

まともな感覚でなかったから」と断じてはイケません。

 

某民放系のニュース番組にてあの男についてのコメントの前置きに「私はこういうことをする感覚がわからないので」というものがありましたが、私はこれにちょっとした違和感がありました。なぜなら今の社会の諸所異常性に関して、「私も同じ社会にいるもの」の感覚が欠落しているような気がしたからです。

 

もっとも当流には「悪人正機」という語がありますし、私などはそもそも「どこかしらイカれてる」と常時自認していますので、そういったスタンス(「わからない」と断じ切る)にはなれないのです。

他人様の最悪な病的発症もそれに応えて被害者になってしまう人の心境も「私の事」と考えるべきだと思いました。

 

この事案はやはりそういったサイトの宣伝に「応えたくなる」人の心情を汲まなくてはなりません。不特定の多数の若者が集まったことも・・・。

 

もはやこれは重大な社会が背負う役目となった気がします。

同じ社会で生きている、生かされている、痛みや悲しみはあなたと同じである、その同じ苦しみからは脱したいものだ・・・の気持ちにならなくてはいけません。

 

「私は健常健全である、強く生き抜いて自立している、自殺はあり得ないし考えた事もない、少々の痛みは我慢しろ」の主張を繰り返すばかりでしたらそれを成し得ない人、その解法の迷宮にハマり込んで道を見失った人の道筋とはなりません。

 

今の社会の混濁の中、皆が特に挫けてしまった心を抱えた人たちに同情でなく、本当の平身の気持ちで、同じ弱き人間として吐露される言を「聞かせていただく」気持ちが必要であるとあらためて気づかされました。

 

さて、画像は棚草付近をうろついた際に出会った乳牛。

やはり牧野さんのお宅の牛です。

一所懸命に「生きてるよ」と大きな眼で私を見返していました。「お前も生きてるな」と。

 

こちらの棚草を電話帳で調べれば10件弱。本家は既に北海道の方にいらっしゃるようですが・・・狭いエリアですが結構散見されます。

 

その中で③画像の地元の紹介掲示板にある「牧野篤好」について。この方は地元棚草では有名な方。そして種子島にても。

種子島茶を広めた方ですね。

熊毛郡(種子島と屋久島)の初代郡長(20年在職といいます)になった人で産業の無かった種子島という地に茶業を広めた人です。

 

以下種子島の観光情報誌より抜粋

「熊毛郡初代郡長牧野篤好氏が、明治35年職を辞して郷里の静岡に帰り、種子島が茶業の適地として将来性があることを郷里の茶業経営者に移住の勧めを図ったところ、明治四十二年松下助七、栗田茂三郎、松下清作の三氏が移住し、番屋峯の山林を拓き茶業経営を始めたのが種子島における製茶業の創始です」

 

私がお会いした牧野篤好氏の縁者の方はやはり棚草城城主の件は不詳ながらどうも三河の牧野古白(またはこちら)の関連性を示唆していました。牧野古白も元は豊橋の牟呂八幡宮の神官だったという説があります。

尚、種子島のお茶の味は?・・・と聞けば「生育が良すぎて・・・」とお茶を濁していました。

 

②は③の近隣、後藤粛堂という地元史家の顕彰碑。その裏側に自宅がありましたが、縁者が逝去、遺言によって菊川市管理となっているとのこと。

ただし現状このあたりの地区で土地を市に寄進したいという件、まず大抵は却下されますね。土地を市に献上したい、引き取ってもらいたいという家はますます増えているようですが。

自治体も固定資産税の徴収が期待できなくなりますし。

 

④⑤は近隣の祠、「辻の観音さま」。

⑥は棚草の公民館。のんびり散策するならこちらに車を置かせていただきましょう。

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コメント: 2
  • #1

    クリクリ (木曜日, 09 11月 2017 00:32)

    棚草村はこの辺りでは、実力のある村で草刈り場も広大であったようですね。近くの川上村との訴訟の文書をいくつか見たことがあります。

  • #2

    今井一光 (木曜日, 09 11月 2017 12:08)

    ありがとうございます。
    棚草は台地にばかり目が行きますがその平坦な場所は田が広がって、それぞれに田圃の名称がつけらるなど管理と繁栄のあとがうかがえます。
    その収穫の成果が大きな農家を生んだのかも知れません。
    訴訟文書の件、興味深いですね。