友人の「奥の墓道」氏よりすごい画像が送られてきました。
以前無知のまま松阪にて家族で松阪牛を食し財布がカラっぽになった経験がありました。
以来それに懲りてビーフは「ガシっとしたしっかりした食感」(オーストラリアかアメリカ産)を好むようになりましたので、国産の高価なものを選ぼうという気は起こりません。
そこに彼から送られてきた「これからありつこう」という昼食のライブ感ある画像は、なんと「特選 山形牛一頭コース」というもの。
前菜のあと特上牛タン塩、特選山形牛一頭六種、海老焼、牛にぎり(山形牛大トロあぶりにぎり)・・・デザート等、それに追加でもう一皿と。彼の事だから生ビールが付いていることは言うまでもないこと。
昼間からの贅沢三昧の理由。
それは遡る事数日前の書生さんたちが屯するようなファミレスの食事会の画像からでした。
彼の友人の競馬通というか殆ど病的な陶酔者、いわゆる競馬が生活の一部となってそれのためのみに仕事をし、その公営のバクチにとことんハマり込んでいる方ですが、大抵は生活困窮のために周囲の友人たちがバックアップし、その食事会の様子でした。
300円代のナポリタン?の画像がメイン。
友人たちは何故にスパゲティでその彼を支援するか・・・それが山形牛の奢り返しにあります。
バクチ依存の方はずっと負けっぱなしで尚その前日に有り金の殆ど(その際は12万円)を競馬で失ってオケラ状態。
しかし翌日(おそらく11/3)残りの小銭で勝負(全てなくなるまで使う)、購入した3連単100円が大アタリとなったとのこと。
その配当が134万円。
ということで昼間の焼き肉接待が催されたのでした。
すべてのことのスケールがデカすぎて溜息しか出ませんが、その話を聞いて息子に「競馬をやってないだろうな」とメールしている私がありました。コマーシャルはきれいごと、「騙されるな」とお頭の弱い愚息に言い聞かせ。
ちなみにその競馬ファン(美化して申せば)の方は相当な高学歴であり、独身であることを付け加えて記させていただきます。
今度、「貯金はしてるの?」と聞いてもらいます。
さて、棚草の城址はまぁ「本城山」(こちらの最後の画像B)というのが通説です。ということで「雲林寺のやや東方の郭坂(くるまざか)を登る」(日本城郭大系)に沿って歩を進めてみます。
茶畑に改変されていて敢えて言えば段丘上の平たん部を郭とした西向きの城砦を推測できます。
お寺の本堂の上方となる「郭」(これまた敢えて言えば「三の郭」)に祠が建っています①②③④。①は二郭方向から振り返ったところです。
コンクリート製で作り直しなのでしょうがその名は「今川さま」。「何のこっちゃあ・・・」ですが城郭大系によれば、
「永禄九年今川氏から地頭朝比奈孫十郎に宛てた書状」(棚草共有文書)の存在から棚草は今川配下の朝比奈氏の支配下にあったというのが通説です。ただし永禄九年といえば1566年、「遠州忩劇」の真っ最中で遠州が不安定期にある時で氏真が掛川城を出たのが永禄十二年になります。
私はその朝比奈一族とすれば誰がいたのか、それとも別の誰かがいたのか色々思う所がありました。
またその上段の「二の郭」(整備された茶畑)を超えるとその上の「本郭」に辿り着きますが、そちらは今、茶畑につきものの放棄地となって茶の木の白い花が咲き誇っていました。
堤城千畳敷をかき分けた如く進めば、気休め程度の小さな空堀を思う結界の上部に地元有志が掲げたと思われる「棚草城」標識が現れます⑧⑨⑩。その段の上に上がって北側方向に回り込むと先ほどの今川様と同じような祠の「本城様」があります⑤⑥。
本郭の背後をのぞき込めば一応、切岸状急傾斜が見られますし、堀切を推測できるような場所もありました。
最後の画像は航空図を拡大しましたが、今川様(黄〇)と本城様(青〇)の両祠が確認できました。本城様の祠の丈夫にも何か不明の札が付いていましたが態勢が苦しかったため未確認。
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クリクリ (月曜日, 06 11月 2017 22:35)
私も菊川市民がなのですが、16世紀より古い先祖を持っているというお宅を聞いたことががありませんね。もしかしたら、本当に無人になった時代があったのかもしれません。
横地周辺の中世のころの五輪塔も、先祖のものというより、掘り出したり、打ち捨てられていたものを集めて、供養してあるようですね。
今井一光 (月曜日, 06 11月 2017 23:09)
ありがとうございます。
無人というよりも新しい領主による歴史のリセットかも知れません。
敗者が昔の名前を名のることは追捕そして死をも意味する可能性があるため敗者も
先祖をリセットせざるを得なくなります。
戦いに負けるということは一統もろとも「犯罪者」と同等だったからですね。
しかし、地元にはしっかりと表には大きく出て来なくとも古い家はありますね。
古くから都の大きな寺社の管理下にあった当地ですから、その代務管理者として都から下った(特に藤原系)統率者たち、そして鎌倉期には御家人たちがいたはずです。