この「棚草」という名は意外に全国的に独特の名のようでそれをそのままググってみれば一発で菊川市の棚草がヒットします。
その地名の「棚」とは地形を表しているのかもしれませんし、ひょっとしてそれを示唆しているのは段丘の連郭式山城?・・・などとそちらの近くを通過する際に思いを膨らませていました。
というのは先日もブログにて堤城直下の街道は週一で通るくらいの時期があったと記しましたが、相良から菊川、掛川方面、最近ではバイパス利用の浜松方面へ向かうに通過する頻度が高い道です(県道69号線)。
また、高天神城に向かうにもこちらを通過しています。県道69号線はかの有名な「塩買坂」(しょうかいさか)の新道(旧道は南東側尾根上)から西進する道ですから。
上記③で記しましたよう龍泉寺背後の尾根の西の端が獅子ケ鼻砦から高天神城までの見晴らしが絶妙といいところから、私は武田軍の「塩買坂に旗を立てる」の位置はこのあたりでは・・・と勝手に考えたものでしたが、その尾根から北側の平地に降りたその連なる舌状台地帯が棚草の地となります(場所はこちらまたはこちら)。
武田軍進行の本体は二回とも菊川の下流の国安まで南下してから渡河していますが、やはり多少なりとも高天神に近い北側に転回する部隊があったことは推測できます。
すると直近北側の城砦といえばこの棚草の「棚草城」です。
もしこちらに敵の伏兵が忍んでいて、南下する兵の背後を襲われることを考えればリスクの芽は摘み取っておくことがベスト。
そのことから棚草城が武田軍によって蹂躙されていることが想像できるのです。そしてそれが棚草城に関する史料が殆ど残っていない理由であると。
「棚草城」は漠然と地名として3つの台地と谷にその城址を示唆する名前が残っています。もしこの3つの台地が一領主の城だとするとかなり大きな城郭となります。
ただし上記「棚状」の曲輪を感じる場所は茶畑に化し耕作の手が入っていて明確に遺構としての確証はありません。
最北の平地は「星ケ谷」という廃寺があったあとといわれますが、その次の「北ノ谷」との間の台地が「平城」(ひらしろ)―上記航空図A。
次の「殿ノ谷」との間、真ん中の台地が「本城山」(ほんじょうさん)B。そして「殿ノ谷」と県道69号線の走る狭間との間の台地を「城山」(しろやま)C・・・これは現在でも地元で通じる名称であるということも驚きですが、3つの台地ともすべて「城」の称付きということも凄い場所です。
まさか3つの台地を使った(本丸 二の曲輪 三の曲輪・・・等々)広大な連郭式城郭があたかも存在していたように感じますが、いくら何でも広範すぎて防御の集約ができません。
ということで説としては真ん中の「本城山」こそが棚草城としての体裁であるというのが有力ですね。
「中央部の殿ケ谷付近に居館があり、本城山に主郭を置く根古屋式城郭であったと推測」「雲林寺のやや東方の郭坂(くるまざか)を登る」(日本城郭大系)
その根古屋付近をブラついていた際、お会いしたのが鎌田氏。
古くからの地主さんという鎌田氏と立ち話となりましたが、この方のご先祖は源義朝の郎党鎌田正清と仰っていました。
今は「かまだ」と名のっているとのこと。
ますます壮大な歴史とこの城の謎の一部に触れられたように感じました。
画像1・2番目は西側から見た台地。2の矢印が雲林寺。真ん中B
の台地です。
航空図の左上に堤城と好運寺が見えます。堤城の下の好運寺霊園の本寺ということになります。
本城山台地上からは西に台地が重なるため高天神城側への見通しがよくないことがわかります。
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河東村出身者 (土曜日, 04 11月 2017 19:52)
横地太郎の話に未開の地であった横地に住んだ旨の話がありましたが、鎌田氏がやってきた時の棚草も同じようであったのでしょう。
棚草といえば榑林氏もいましたね。
今井一光 (土曜日, 04 11月 2017 20:32)
ありがとうございます。
棚草の地は謎ですね。
今川、朝比奈の名も城址の祠から推すことができますし、近隣に点在する「牧野氏」の出自も不明なところが多いですね。
歴史の中で数多の者たちが交錯し、歴史から姿を消していったのでしょうね。
くりくり (月曜日, 06 11月 2017 00:27)
いつも、地元の歴史地理をわかりやすく書いていただき、ありがたいです
この地域は戦国の世には斯波氏国人衆と今川勢力のせめぎあいから始まり、武田軍の高天神落城まで戦乱が絶えなかったですよね。古い歴史をしるしたものも、ほとんどないということです。ただ、菊川市内は、実際古墳や遺跡だらけで、開発するにしてもまことに苦労するのも事実です。通りいっぺんの歴史自慢でなく、古い歴史を何とか紐解いていきたいものです。
今井 一光 (月曜日, 06 11月 2017 00:44)
ありがとうございます。
そうですね、比較的多くの遺跡が菊川にあって羨ましい。
斯波-今川のせめぎ合いということは応仁文明の乱という京都の大乱の
あおりをもろに喰らっていたということですね。
それ以来、今川-武田-徳川の交錯があって史料が消失し、不詳の部分が多くあるのでしょう。
わからないところを漠然とわからないなりに歩いているのも楽しいことです。