「味知」との遭遇 三浦雅楽之助 誓願寺 

台風21号の被害は上陸した当地よりも案外その周辺で発生したようです。

150号線を走れば看板が落ちている個所も散見されていましたが、「やはり」と思ったのが東名高速道路。下り車線の富士~清水間は昨晩夜8時までは通行止めでした。

 

先日滋賀県日野から三重の鈴鹿山脈超えをチャレンジしたことを記しましたがあの鈴鹿スカイラインが通行止めになっているそう。おそらく未だ通行止めの解除はされていないと思いますね。通常時でもリスキーな道を感じましたので。

ヘタをすれば来年までそれが続くこともあり得ますね。

昨日は繁忙の為前日集めた落葉の処理ができないでそのまま放置していましたが、夜間に報じられた三重県に大雨注意報に驚いてゴミ袋3つを屋根の下に移動しました。

予報では晴れの筈だったのですが・・・また台風22号が北上して週末をうかがっているようです。まったく・・・カンベンしてもらいたいですね。

 

さて、丸子の誓願寺にて。以前うろついた際に初めて目にした人の墓ですが、「未知」という家の区画がありました。その前を通過しなければ片桐且元夫妻の墓に当たりませんのでどうしても立ち止まらないわけにはいかなくなります。

 

まず目にとまるのが「駿州横山城主~」の石標と中心に建つ「味知家」の墓碑。

横山城は「興津の?」と思う所。そちらは元今川領で武田信玄に落とされたあとは北条氏と激戦があった城ですが、「味知」なる名はまさに未知。

家紋は「三つ引き両」で相模三浦氏と同様。関連は不詳。

右手前の笠塔婆形墓石には三浦雅楽之助の名があり東照宮(家康)より軍功によって「味知」の名を賜ったとのこと。

家康が三浦の名を嫌ったのか何故に姓を変えたのか、これも不詳。ひょっとして「あの三浦」のイメージが強すぎたのかも。

 

遠州の今川系家臣団が武田に浸潤された後、武田に付いて徳川に掃討される姿は目にしましたが、駿河の今川配下が武田に攻略されていく中、徳川配下に至るタイミングというものが今一つわかりません。

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コメント: 12
  • #1

    酒井とも (水曜日, 25 10月 2017 14:55)

    こんにちは。webに逸話がありました。本姓は三浦氏なんですかね?

    広野の味知(みち)家由緒

    家康公が広野村(駿河区)へ鷹狩りに出掛けた際、昼食を家臣の家から献上された。この弁当がとても美味しいので、その屋敷に立ち寄ったところ、その家の庭に一本の大きな柿の木があった。食通の家康公は、その柿を食したところとても美味しかったという。そこで家康公は、昼食も美味しいし、柿も美味しかったため「この家の姓は今後“味知”と名乗れ」と言われ今日に至っている。味知家に伝わるこの柿は、以後毎年9月17日に久能山に献上する慣わしとなった。

  • #2

    今井一光 (水曜日, 25 10月 2017 20:32)

    ありがとうございます。
    私もそのお話を聞いたことがあります。
    珍しい名でまんざら作り話とは言えないでしょうね。
    しかし墓地の石標の件、「駿州横山城主~」はどうしよう・・・というところです。
    その辺りのお話が挿入されていると「ふむふむ」と思うところ大なのですが・・・
    おそらく口伝として色々あるのかとは思いますが、文書としては消失してしまっているのかと思います。

  • #3

    酒井とも (木曜日, 26 10月 2017 09:56)

    こんにちは。
    すみません、住職さんは逸話は存じていたのですね。失礼致しました。

    今川館陥落時までの横山城主は興津氏のようですね。味知氏はその与力だったのか?
    本姓が三浦氏ではなく、興津氏もしくはその一族でしたら、うなづける話なのに。
    伝承に関わる事柄の一つが横山城に有って、それが伝播したのですかね。


  • #4

    今井 一光 (木曜日, 26 10月 2017 22:27)

    ありがとうございます。
    以前、掛川西郷の北条氏の墓石についてブログにて記しましたが
    そちらの御当主は元々北条を名のっていたといいます。
    そしてそれら小田原北条家とのつながりを記した古文書が残っていたそうですが
    経年と天災が重なって消失し今やそれを証するものはなく、口伝のみとなってしまった
    ことを嘆いていました。説得力がなく荒唐無稽と揶揄されることを嫌ってもはやどうでもいいようなことをおっしゃっていました。
    各家に残る伝承というものもハナから拒絶することなく、大事に聞いて吟味する必要がありますね。しかし角度の違った「文書」の3点も存在しないと史実からは遠い「作り話」にされてしまうのです。
    横山城については謎ですが、味知家には確固とした「何か」伝承があるのでしょうね。

  • #5

    矢ヶ崎  理 (水曜日, 06 4月 2022 11:23)

    大分時間が経ってしまってからのコメントで恐縮です。味知姓と三浦氏、横山城主との関係について存じていることを記述します。国立公文書館蔵「駿河国今川家諸家中分限帳」に
    「一万六千石 同(駿州) 横山城主 三浦上野之助」と記載があります。この人はこの墓所味知雅樂之介正勝の父です。
    今井御住職のご高見、誠に嬉しく同感いたします。口伝のみでは「作り話」にされてしまう。仕方がないかも知れませんが、可能性を閉ざし過ぎてしまいますね。

  • #6

    今井一光 (木曜日, 07 4月 2022 08:33)

    ありがとうございました。
    味知雅樂之介正勝の父「横山城主 三浦上野之助」了解しました。
    良きご縁をいただき感謝いたします。
    丸子の誓願寺近くを走る国道は私が静岡へ辿る道です。
    再訪してお参りさせていただきます。

  • #7

    矢ヶ崎 理 (金曜日, 08 4月 2022 23:26)

    ありがとうございます。この三浦家は1247年の宝治合戦で自決した三浦泰村の兄で朝村の後裔と伝わっています。(新訂寛政重修諸家譜巻9)
    ご縁、本当に不思議でありがたいものですね。
    近日、大沢寺様にも是非お詣りしたく存じます。

  • #8

    今井一光 (金曜日, 08 4月 2022 23:45)

    ありがとうございます。
    やはりその「三浦」つながりだったのですね。
    三浦つながりで今一つ
    当家代々でブログ頻出、学者並みの教養があった九代釋祐厳は三河熊村安養寺から拙寺に入った人(婿)ですがその安養寺は三浦姓。
    伝承ではその際、鎌倉から逃れてきて寺を建てたといいます。
    真宗変更は蓮如さんの頃と。

  • #9

    矢ヶ崎 理 (日曜日, 10 4月 2022 15:37)

    貴重な情報ありがとうございます。安養寺(現在の刈谷市熊野町の海上山安養寺ですよね。google street viewで確認しましたら山門の屋根の丸軒瓦が「三つ引き両」(三浦氏の紋)でしたので間違いないと思います。) 間違えていないことを前提に推理してしまいますが、こちらの安養寺から東方2㎞ほどの「重原」に宝治合戦で鎌倉から不明になっていた三浦四郎家村の子孫が居を構えています。家村は三浦泰村の弟です。血筋を残すため兄たちに説得されて三河に落ち延びたとのことです。家村の嫡男の子孫は江戸期に大名になっていますが、次男は出家し證雲と名乗ったようです。(俗名は家康または家庸)
    子どもも数人おり、この人が安養寺に入ったか、或いは開基となったのか…という所でしょうか。

  • #10

    今井一光 (日曜日, 10 4月 2022 19:25)

    刈谷の熊野安養寺についてのさらなる情報をありがとうございます。
    私も断片的な情報しか持ち合わせず刈谷探訪についてはこれからでしたのでとても有り
    難くおもいます。
    一度だけ安養寺住職と立ち話程度の挨拶をしたことがありますが伊豆の国市の成福寺の北条住職(同じ大谷派岡崎教区の端と端という感じです・・・)と昵懇にしているとのことでした。この歴史のスケールと偶然というものの御縁に感謝いたします。

  • #11

    矢ヶ崎 理 (日曜日, 10 4月 2022 23:27)

    こちらこそありがとうございます。
    安養寺御住職と成福寺御住職が御昵懇。素晴らしいことです!
    (あくまでも現在学術的に確定している宝治合戦の史実が当てはまるなら、ですが。)
    八百年、千年という時間は、敵も味方一緒に押し流してしまい、流されながらその内に
    お互い大笑い、なんていうことにしてしまう大河なのかも知れません。
    怨讐を超えることがどれだけ大切か、人生50年を過ぎてつくづく、沁みております。

  • #12

    今井一光 (月曜日, 11 4月 2022 00:24)

    ありがとうございます。
    人類のその怨讐を以っての争乱の数々、殊に最近のそれを視るにあたり
    日本人特有の「和」というものへの回帰(戦前戦中から)の風潮は世界に胸を張れるもの
    と感じます。またその融和と仏教的「ご縁」の感動をこれからも維持していきたいところです。