天気予報の通り午前限定の晴れに母を連れて期日前投票へ向かいました。すると皆さん考えていることは同様、車椅子の介護付きの投票者が私どもの後ろに並んでいました。
これは通常市役所の1階の特設会場での投票所ということになりますが、今回は市長選+市議会選が重なっていますのでスペース不足から3階に変更されていました。
それがまた「超遅い」と思わせまた車椅子1台ギリの小さなエレベーターですから同伴者は苦慮したことでしょう。
滅多にないことで、しょうがないことでしょうが、「3階」というのは反則です。
まぁ次の4年後に母を連れてこれるかどうかはわかりません。
浄土へ向かうに私が先か母が先かの決まりはありませんし、現状母は元気そのもので私はカラ元気。
どちらが先でもかまいませんが、もし次の選挙まで両健在だとしても母を連れて投票には行きたくないですね。
なぜならデカい声で投票者の名を読み上げて恥ずかしくてしょうがない。
最高裁判所のアレ・・「どうするの?」「面倒だから全部×しとけ」。ドタバタになります。
さて先日記した匂坂城推定地鬼門の方角に建つ増参寺の墓域には匂坂家離檀済みのため墓地がないことを記しました。
ではどちらに・・・というところですが、やはり大ざっばに北東方向となる位置に真如寺という寺がありました。
まぁ寺というか殆ど祠の様で、遠目からはそれを確認することはできません。道路が脇を通っていますが隣接する墓地とともに植栽の垣根で覆われていることも判りにくい要因です。
目標はJAの建物。その西側の畑の植栽に覆われた区画が真如寺とその墓域となります(場所はこちら)。
真如寺は匂坂一統+αに特化した寺であることは言うまでもないというところ。
①南側入り口、槙の植え込みの入口に五輪塔2基がお迎えしてくれます②。
その背後の自然石の墓石の右側が延徳三年1491生、匂坂長能の墓。家康の駿府時代に岡崎城に入っていたといいます。
法名が「増参寺殿玉叟長全大禅定門」から匂坂家が当初は増参寺と関わっていたことがわかります。おそらく開山は彼だったのでしょう。
向って左の自然石が匂坂政佑の長男の信重夫妻の墓。
信重は例の匂坂一族の争いで刃傷沙汰を起こし(叔父の長政を殺したという)その咎を受けて帰農したといいます。
夫妻の法名(「祥雲院殿祖岳一宗居士」と妻で長政の娘の「華景貞春比丘尼」)にあと二人、次男の政重夫妻のもの(岩堀元樹氏)のよう。
所領を没収された匂坂家ですが、ある程度の田畑と財力は確保されていたようで、領主の高木久助のコネもあって藤左エ門という人が所有していた「大雄山真如寺」という号を買い取ったとのことなどが祠の中に記されていました。こちらの寺には高木家も檀信徒として入っているようです。
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岩堀元樹 (火曜日, 24 10月 2017 22:16)
こんばんは。匂坂家の墓ですが、いまだ政重夫妻の墓の確たるものが見つかりません。ただ、ここに匂坂家の墓が残っていたのは、とてもうれしかったです。
今井 一光 (火曜日, 24 10月 2017 23:13)
ありがとうございます。
岩堀元樹様のコメント光栄です。
いつも貴書籍にはお世話になっております。
またどうぞご指導のほどよろしくお願いいたします。