その昔の匂坂家菩提寺は増参寺 阿弥陀堂礎石

先般のお取越しでの雑談。

ガソリンスタンドを経営されている方が、仰いました。

「2030年まで生きちゃあいない」と。要は「知ったこっちゃあない、勝手にしやがれ」の捨て台詞風です。

世のEV(電気自動車)の流れですが、フランスあたりでは全ガソリン車、ジーゼル車の販売を2040年までに終了させると発表していましたが、中国ではそれをグッと早めて「2030年」と。

ちなみにスゥエーデンのボルボは2019年~電気化を開始するとまで。

 

産油国も石油元売り各社もそれに備えて対応を試行しているようですが、「末端は廃業するのみ」と。

それだけではありません、拙寺檀家さんには自動車産業を支えている各パーツ類の製造に関わる方々がいらっしゃいますが、電気自動車になるとボディーの中はまるでウニの中身の様に空っぽになるそうですね。使用パーツが1/3になるといいます。

 

ということは分業の広がった自動車産業従事者の半数以上に「退場」が待っているということでしょうか。

別の方向ですが既に始まっているのはカメラとモニターのシステムによってバックミラーとサイドミラーを廃止するというものです。

流れに乗るか乗らぬかそれとも投げるか、人間世界の営みにはどちらかで岐路の提示を試されます。

 

さて、匂坂城の推定地は磐田市立岩田小学校(磐田市匂坂中)あたりで、例の石碑について何度か記していますが、では匂坂家の菩提寺は?・・・というのが次の疑問ですね。

こちらの南、加茂の平野氏館のスグ北側には菩提寺の大円寺がありました通り、城館の直近に菩提寺が「ある」というのが通常。まぁ、そういう場合、菩提寺は城館から見て丑寅(北東)の方角を中心に考えます。それってちょっとした常識ですね。

 

そこであの城の石碑の直近で北~東方向の寺を探せば・・・大きな本堂が目に入りました。

それが増参寺です(場所はこちら)。セオリー通りいたってわかりやすい!!

しかし墓域には古そうな匂坂一統の墓石はありません。

本家は元禄十年(1697)に亡くなった匂坂家十八代目の善兵衛勝重(ちなみに社山城を降りて匂坂城を築城した匂坂重能が八代目)が増参寺を離団したといいます。

 

寺標のウラには匂坂さんの文字が見えますが、本家は400年近く前に移っていたようでした。

 

門前には六地蔵覆堂と遠州伝承の一つらしき「天竜川石投げの力比べの石」が置かれていました。

お寺のご本尊は釈迦如来、こちらの石はどちらかの阿弥陀堂の礎石だったようです。 

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コメント: 3
  • #1

    小山昭治 (火曜日, 17 10月 2017 08:58)

    まさしく変革の世の中ですね。
    この先 商店はまさしく生き残りと言うより絶滅危惧種。
    残るには、ニッチを探して変革するしかありません。
    地道に小さいものを探して這いずり回り、手間暇惜しまず。
    いずれにしても かなり苦しいことです。
    生き残った者は必要。そうでないものは変わるしかない。
    全ての産業が生き残りを賭けて動いています。
    結果は分かりません。丁と出るか半と出るか。

  • #2

    野村幸一 (火曜日, 17 10月 2017 12:44)

    匂坂…どこかで見たな?と思って手帳をペラペラめくると、明治初期に上西郷の石田家から向笠村の匂坂家に養子に出た人がいました。多分、こちらで書かれている匂坂氏と同族かと思われます。

  • #3

    今井一光 (火曜日, 17 10月 2017 18:16)

    いつもありがとうございます。
    本文の通り、「おさらばしているからどうでもいい」という考え方もしかりですが、
    物事の変化の度合いも早さも著しく、今の家業を励んでいるうちに「今」その波に
    さらわれることはかないませんね。
    企業レベルでの考え方ではいたずらに「死ぬのを待つ」ワケにもいきませんから
    早め早めの新戦略シフトも必要でしょう。
    実はそこに新しい起業の目も含まれているのですね。
    どう立ち回るかは戦国時代の国衆やその配下の身の振り方にも似ています。
    ちなみに私の家、寺としての存在継続については「阿弥陀にまかせる」しかありません。

    今の天竜川東岸の匂坂から遠州中部の匂坂・鷺坂・向坂に派生したことは優に想像できるところです。野村さんの家系図から色々な姓が出てくるという傾向がまさに「この辺りの人たちはみんな親戚」たる理由ですね。
    昔から婚姻は手身近なところで「まとめた」ものです。
    どなたかが話を持ってきて、その人の顔を立てて子供たちの意見は無視し、親たちの了解によって成立したものです。
    前近代的な構図でいたって封建的名残ではありますが、少なくとも今のような人口減少の途は歩まなかったかと。
    話がおかしくなってしまいました。