匂坂城のどう考えても不思議 あの石碑のもとへ 

先日の市長候補者の短い挨拶の中、一番に重要である、彼らが推進したい思うことに照準を合わせてくる事は当然です。

ただしライバル候補と同じことオウム返ししてもイメージはマイナスですが。

要は他者と「どこがどう、そしてどれだけ違うか」をアピールするかにかかっているのです。

 

そして皆さんのお話のさわりは、どれもすばらしい。

しすし、私たちが思うアレについてはどちら様も一切触れずでした。

何やらアレだけは口をつぐんでいた方が適切・・・というコンセンシャスが一同共通にあるような気がしました。

それは「浜岡原発どうするの?」です。

庶民の声として「フクシマ」の悲惨の二の舞を想像しない人はいないでしょう。

 

それを発する事によってマイナスとなる、支援が受けられない・・等々の計算が働いているのだったらまったく興ざめです。

当然にその辺りはこれから大いに突っ込まれて避けては通れないような重要事項ですので数日中には明らかになってくるとは思いますが、まぁ雰囲気的には適当にお茶を濁していくような気がします。

 

さて先日いろいろ不思議な社山城を記しましたが、私の一番の不思議は、その城から出た匂坂六郎五郎長能が天文元年(1532)が築いたところまではわかりますがどう考えても「なぜにここにどうして・・・」と腑に落ちませんね。わざわざ社山から下りた平地ですから。

天竜川東の河岸段丘から見れば「底部」、背後は天竜川が流れていますので段丘から一気呵成に攻められたら「瞬殺」されそうに思う場所です。

 

駿府よりも浜松方面好きになりつつある今、あのあたりの通過頻度が多くなりましたが通行時はいつもその城の背景を色々考えてしまいます。

一説に匂坂の平時の館はその台地上にあったといわれますので、そうなるとこの城はいったい何?と思わざるを得ません。

まぁそういった疑問への優等生回答としては周囲深田にあった浮城と考えるのがスジですね。

 

元亀三年の三方ケ原の前夜武田の兵火によって落とされていますが、続けて信玄は穴山梅雪を置いていますので一応は城としての機能は評価していたということになりますね。

 「磐田郡史」によるその位置について「匂坂城址は岩田村匂坂中にあり」と記されているところがその根拠なのでしょう。

 

磐田市立岩田小学校(磐田市匂坂中)周辺が城址推定地となりますがまったく城としての遺構はありませんし、城址の「匂い」のしない場所ではあります。

例の石碑(こちらも)を再アップします。テカテカに磨かれた石碑で判読しにくいため両方向から撮影してみました(場所はこちら)。

下図は周辺航空図。天竜川の大きさがわかります。東側の緑色のラインが丘陵の縁になります。 

 

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コメント: 2
  • #1

    クリクリ (月曜日, 09 10月 2017 08:22)

    不思議な場所ですね。関所の役目でしょうか
    西に備えているのか、東に備えているのか
    しかも、当時なら天竜川の流域になっているかもですね

  • #2

    今井 一光 (月曜日, 09 10月 2017 18:31)

    ありがとうございます。
    当初の今川の息がかかってる時代では天竜川を天然の堀として西からの侵攻を待ち構えることを考慮していたのでしょうが、仰る通り、当時は雨が降るたびに天竜川の増水にヒヤヒヤさせられるような殆ど天竜川の河川敷のような場所のように感じますので、あまりにも具合の悪い立地であると思うのです。