政治家の世界では「目立たず世間無名」よりも「多少の悪名であっても世に名が知られる」方が「ヨシ」とされるといいます。また最近では「ちょっとばかり度を越したCM」を製作して、ワザと炎上させ世間に周知させるという手法があるようですがそのような「奇をてらう」奇策が結果的に成功すれば、暴挙ともいえるような周囲ドン引きの手法も歴史の中では「有能勇壮」などと囃されたりします。まぁうまくいった場合のみですが・・・
大抵の場合は当初はたとえ成功譚として評価されたとしても、最終的に地位禅譲がなされず争いが起こりあるいは非業の死を遂げたりすれば世間様は一転「それみたことか」風の後ろ指をしながら「仏罰」を囃すことになりますね。
そういう意味では私たち真宗門徒のご先祖たちは信長の本能寺の評価は、大いに「仏罰」を思ったことでしょう。
そのような因果応報の論理、種を撒けば必ず自分で刈り取る(善因善果・悪因悪果)という考え方は未来を担う子供達に向かって示唆していくべきものと思っています。
すべて「わたしの言動・はたらき」がわたしに作用するという思考は頭に入れておくべきスタンスです。
そのあたりの考え方は古くから日本の文化と人の心の中に潜在的に強く伝わっていますので、為政者による暴徒への処断は往々にして「因果」理論を中心に「やったらやられる」報復代行に近いカタチで処されてきました。罰を仏に代わって処断するということ。
このカタチは今のお国のそれ、死刑制度に引き継がれているのですが、まぁいつも記させていただいていますがこの件はいかにも「前近代的」です。
たまたま公然のショー的見せしめの効果はないものの、その存在が厳然と「ある」ということでの犯罪抑止効果を狙っていることはわかります。しかし、実際にはその効果はゼロに近いといいますからね。そもそも仏はそんな事(人が人を殺す)をしろとは言っていません。
よって死刑とは為政者のパフォーマンス程度のことと考えられます。まず犠牲者遺族感情を斟酌した処刑代行という立場もその後からついてくるにすぎませんね。
どういう理由にしろその死刑の執行権を維持する理由の根拠はかなり古い考え方であって、そこのところだけを考えればお国の思考はカチカチであり、政治屋諸兄の憧れの語とも思われる「賢明」「紳士的」「先進国のお仲間入り」などとは甚だ言い得ぬ事と思うばかりなのです。今や「死刑システム」があるだけで「野蛮な国民」「後進国」と断じられる嫌いがありますね。
さて、昨日の小原鎮実の処断とは要は人質の死刑の執行人としての立場でした。それは世間体としては惨い事との評価はくだりましょうが、ある意味人質たちには覚悟というものがあったでしょうね。「人質」の性質上その件は切っても切れないという事情がありますから。
ただしその鎮実の悪名を大いに三遠駿に轟かせたのが「十三人婦女子」の「串刺し」事件でした。
その行為は被害者の徳川方三河の家臣団の恨みと仕返しを将来に約する団結力となったわけですが、利を得たのは当然にトップの家康でしたし、今川氏真からすれば忌避したい立ち回りによく働いたという評価が鎮実に向かいます。
鎮実もまた今川家重臣としての地位と責任があったワケでそれはあの流れの中でよく今川家につき従ったという武士としての一途さは、今川家の盛り返しがあったとしたらすばらしきヒーローとして承認されていたくらいの立場の筈ですね。
実際の今川家は衰退の一途、崖を崩れ落ちていくよう歴史から姿を消していくのですが、やはりその流れの過程での抗いは空しいというのも歴史上証明していることです。
そのヒーローになり損ねた小原鎮実には子たちがあって、越後に落ちた本来なら家督を継ぐべき実子?とは別に同じく今川家臣団の三浦氏に養子に入った三浦宗有(右衛門義鎮)がいました。
この人の評価はその父親の小原鎮実よりもさらに悪いものがありました。
例によって藤田鶴南氏の言を借りれば
「氏真の暗愚に乗じて今川の旧領を恣ままに処理して我欲を満した」
とありますのでかなりのワルのイメージが匂います。
花澤城脱出時はおそらく小原親子一統ともどもであったことは間違いないところですが、「この際一統分散が勝る」と解して、それぞれが各思う所へ走ったのでしょう。
それが三浦宗有の(袋井)岡崎城の四ノ宮右近の元だったのですが、この四ノ宮(四宮)右近なる人は三浦宗有の奥方の弟で要は親族頼りの苦肉の策だった感があります。
ちなみにこの奥方、菊鶴は今川義元の元の側室でいわゆる拝領妻だったようです。
そのくらいこれら一族は今川中枢に喰い込んでいたグループだったことがわかります。
ところがこちら岡崎地区はやはり今川に拾われたとも言っても過言ではない小笠原家、長忠の領地でした。
当初遠州入りした際に今川から与えられた馬伏塚城の目と鼻の先です。
長忠の三浦宗有の処断について時期については殆ど父親の小原鎮実を自害に追い込んだ頃だと思われますが、三浦の場合も父同様に討伐と称して三浦が引き連れてきた一族郎党を漏れなく成敗してしまいます。
この件は「親の因果が子に報い」と「自身因果の報い」と揶揄されたことは違いないところですが、あまりにも惨い仕業であったとこの所業について今度はこれを差配した小笠原長忠の因果応報について世の中は囁いていたともいいます。
こちら宗有寺(そうゆうじ)は彼の戒名を冠にした寺で後年に横須賀城に入った大須賀康高の夢枕に三浦が立って、康高に対して
「過去の罪業 深く苦しみに堪えず 是非に弔祭を望む」
との談。
亡霊の話に痛み入り康高は四ノ宮右近屋敷址に船原山宗有寺を建てて彼らの菩提を弔ったそうです(場所はこちら)。
この宗有寺については覆堂の石仏を先日紹介しましたが、本堂の左側奥の茂みの中に、彼とその妻の供養碑があります。
ただし建立当初のものではなさそうで再建碑の様。
私はコロっと転がる五輪塔パーツの方が気になりました。
寺には位牌が残るそうです。
左 宗有 正覚院殿無庵宗有居士
右 菊鶴 円通院実渓貞参大姉
画像⑦⑨の通り両脇茶畑の参道の奥、左側の楠の下に夫婦の供養碑が並びます。
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クリクリ (土曜日, 07 10月 2017 00:36)
「三州錯乱」と「遠州そう劇」は、ほんとうに今川、武田、徳川、北条の、どこについても悲劇しかあませんね。「強いものにはまかれろ」のことわざも当てはまらないほどの乱世ですね。裏切りを厳しく処断したところで、明日は我が身で、何ももたらしませんね。
結局、ほとんど全部の国衆は没落離散してしまいますから。
今井 一光 (土曜日, 07 10月 2017 08:21)
ありがとうございます。
戦国時代の人間たちの営みが演出した悲劇の数々が詰め込まれているのが
この遠州忩劇で、これは戦国期でも稀にみる大混乱のステージでした。
出演メンバーは多様で纏まりが付きにくいところですが、これまでの大勢力今川が
没落しつつその地盤が狩場の如く各勢力が入り乱れて錯乱する時代でしたが「歴史と人間」を見るにこれほど面白い時期はないと思っています。
戦国時代といわれるドタバタが詰め込まれていると言ってもいいのかも知れませんね。
しょうがないといえばしょうがないのでしょうが、今回の大河ドラマでの期待はその辺りの描き方を「もっと深く」とわくわくしていましたがもはやただの女性主役のドラマのフィクションと化してしまいました。
歴史も今もすべて人間が歩み歩んでいるものですからこれも仕方なし。