競技場トラック 小田原城外郭御前曲輪 人質曲輪 

私の「井蛙」はここ。

小田原時代の小学校の頃、区やら学校の企画で「城山陸上競技場」という案外早くからアンツーカーによる整備がされているトラックでのイベントがありました。

競技での参加で私の思い出に残る件といえば大学3年の時に「冗談で受けた」南関東競輪選手適正試験選考会でした。

 

競輪選手になるための試験には自転車競技の「実技」か「適正」の二つの道がありました。

今はどうなっているのか知りません。当時適正組の試験とは①100m②立ち幅跳び③1500mの三種と学科試験で、腕自慢いや足自慢の猛者が集まると聞いていましたので自身どの程度のものか「試しに受けよう」ということで願書を提出しました。

 

私は当時すでに真宗僧侶になるための学校(大学1年の時夜学で行った専修学院)は終了していましたので坊さんになるまでは「何でもOK」という気持ちはありましたが学校を中退する気はまったくありませんでした。

 

どこかに記録が残っているかも知れませんが私はこのアンツーカーでスパイク無しシューズで100m走を11秒5というタイムで走りました。

南関東在住の体育会系のチャレンジャー参加者五十数名のうちなんと2位だったということに気をよくして、入社試験の集団面接で「運動はサッカーが主、100mは11.5秒で走ります!!」などと鼻高々に調子づいてハッタリ含めて語ったあとに、次の回答者が「私は11.2秒ですが・・・」とドヤ顔で横目で見られた事が忘れられませんね。

 

「井蛙」(せいあ)とは「井の中の蛙 大海を知らず」です。

「今居る井戸の中、自分世界オンリーで得意になっている狭量な蛙は本当の広い世界を知らない」まさに私の姓「今井」です。まあどんな小さな世界であってもなんとなくでもちょっとでも「輝」があればヨシとしましょう。

 

その小田原陸上競技場は周囲を山に囲まれ箱根外輪山からの裾の東端。西から箱根の山系がCの字の如くその谷を囲みます。

東側開口部からなだらかな下りで「谷津」と呼ばれる地に続きます。

 

古くから御前曲輪と呼ばれ内部の掲示板の如く敷石が発掘されていますが「祭祀」の場であったと記されています。

私には唐突のようでよくわかりませんが(ずっとその解釈)、別名の「人質曲輪」の方がどうもしっくりくるのですが・・・

周囲を山に囲まれて、非常に狭小閉鎖的な谷部ですからね。

北条氏が関東を平定していく段階で攻略していった支配一族の人質たちをこちらの屋敷群に居留させたと考えたくなりました。勿論、二心には酷い仕打ちにて対処・・・という場だったかも知れません。

 

この場所に行ってみればわかります。市内在住の人たちからすれば滅多に訪れるような場所ではありませんから。

①~⑤は西から東側開口部。⑥⑧⑨は南から北。

最後の画像がクラブハウス上部西側に迫る崖部(場所はこちら またはこちら、あるいはこちら)。

 

試験の方は1500mを途中棄権しておしまい。

小中の同級生の競輪選手がたまたまそちらで計測していたのですが、彼から「1500mを適当に完走していれば合格だったよ」と聞いて、ますます増長したものでした。100mのウェイトが高かったようです。

今は年齢制限がなくなっているようですがその頃はその制限によって翌年の再チャレンジはできませんでした。

そちらの方向に行っていたとしたら寺に入っていることはまず間違いありませんがもっと違った人生があったことと思われます。タラレバですが。