昨日は人を雇って境内作業をしていたてだいたことを記しましたが、実は相当ストレスが溜まっていました。
失礼とは思いますが「痒いところに手が届かない」のです。
痒いどころか今、私の体調は絶不調の域に達しています。
これは数年に1回という頻度で出現する体調不良ですが、何しろ体がダルくて人との接触が辛い。
最近のカレー(ターメリック)食によって抵抗力もついたものと思っていましたがこの思いがけない絶不調には少々ガッカリしています。
まぁカレー食効能に完璧を求めるのもおかしなことですが。
よって境内にて一緒に仕事をしながら指示ができないという辛さがありました。引きこもりです。
昨日は土砂降りにより私は1歩も外には出ず、時折りセールスやら何たらの電話と訪問に起こされましたが一日中布団の中。
お昼と夕飯は息子の提供のものをいただきました。
尚奥方は実家帰省してこちらも思わぬことから東奔西走七転八倒しているとの報せ。
今回の絶不調はまったくもって理由(ワケ)がわかりません。
先日サッカーの深夜放送を「夜更かしした罰」と記しましたが、それ以外考えられないくらいの意味不明の変調振りでした。
布団に入っていて「ああ こうやって人は死ぬのだ」と思ったほどですから。
よって最悪期にある今、ブログへの集中力は無し。
思考力もなし。
そんな大袈裟とも思える私の泣き言はいつものことですが、新聞紙上に「こりゃ元気になれそう」という記事が躍っていました。
それが本能寺の変10日後に光秀が密書として土橋重治に出した書面が出てきたというものです。
主旨が「将軍の入京をお受けした」というものですので、信長によって京都を追われていた将軍足利義昭が毛利輝元のもと備後の鞆から完全復帰を目する動きがあったということを証しそれこそが光秀の目的かも・・・との報道でした。
もっともこの書面が出てきたからと言って光秀の信長討ちの目的が足利幕府再興だったとは限りませんが・・・。
当時あの時の光秀が各方面に「イイ顔しまくり」は当然ですからね。
しかし一つの史料として裏に武闘派雑賀衆そして当然に武闘派本願寺(教如)の影が感じられたということが如何にも愉快。
本願寺顕如さんの石山本願寺開城にいたった理由は雑賀衆の内紛も一因です。
いわゆる雑賀衆といえば司馬遼太郎作で映画化された「尻啖え孫市」の「雑賀孫一」(鈴木重秀)、映画では萬屋錦之介のオーバーアクションが思い出されます。
本願寺に入っての彼の織田軍を翻弄する戦働きについては誰もが認めるところでその名は雑賀党の盟主。しかし本願寺開城後は信長について本願寺武闘派の教如さん配下の者たちの思いは一種の消化不良。
当時開城派の顕如さんと反目した武闘派教如さんの懐刀は土橋重治だったかも知れません。
やはり対信長強硬派の兄の守重が開城派鈴木重秀に謀殺されたという恨みが重なって信長憎しの気持ちは人一倍だったことは確か。
本願寺も土橋雑賀衆もともに「天下統一」などの言葉は心にもないグループです。
光秀が彼らの意を汲むということはやはり将軍再入洛こそが目的だったと考えるのがスジなのかも知れません。
面白い発見でした。
コメントをお書きください
小山昭治 (水曜日, 13 9月 2017 09:13)
調子が悪いときはそれなりに。まず体が一番大事です。
返事は入りません。
今井 一光 (水曜日, 13 9月 2017 18:55)
おかげさまで大分よくなりました。
ありがとうございます。