朝の涼しさはもはや「秋」を感じさせられました。
遠く南の台風がもたらす風が一役買っているのでしょうが、気まぐれなコース変更だけは勘弁していただきたいところです。
昨日記したブログについて各コメントをいただきました。
表題の酒井与四郎重忠ではなく、攻め方武田、籠城小笠原の際(第一次)の高天神城追手池の段の守兵として内藤昌豊軍と激戦中、命を落とした大石外記氏久の件です。
引用した文書を記して推測のうえ記したものでしたが、調査不能の部分がありましたので記すことにしました。
書物は藤田鶴南氏の「高天神の跡を尋ねて」です。
「大石外記氏久 鎗疵深く二か所程深手を負うて引き上げかね既にして敵兵に首を掻かれようとした所へ、城兵中山是非之助、小池左近等が槍を揃えて敵を突き退けて追い払っている有様を、
外記が長男新次郎久末当年十八歳、東の尾根で戦っていたが是を見て驀地に飛び来たって親を肩に掛けて城中に引き入れたが、三日の後遂に卒去した。時に年五十六歳。大石外記は遣唐使大石麿の末裔で旧今川氏の武将であった。」
とありました。
この「遣唐使大石麿(二十七代の)末裔」の件ですが私はテキトーにそこのところを転記したワケです。それでは藤田鶴南氏の引用文献はどこから?というところ。
奈良時代に万葉集にて粋な歌を残し、遣唐使ではなくて遣新羅使として朝鮮半島に向かった「大石蓑麻呂」なる官吏が居るのですがどうも他に「大石」なる遣唐使は見えてきません。
というか回数ある遣唐使として唐に向かった役人の名を調べる気にはなりません。
ということで昨日記した「遣唐使大石麿の末裔」の件、保留にして判明次第追記ということで。
そのあとのことについて転記すれば、「天正十年久末退隠して宗兵衛と言い、大坂村を招いて居住した。長男彦左衛門は大須賀家に仕え、後徳川頼宣に従って紀州に仕えた。
久末長女に今川浪士喜平治を迎えて大坂村大石家を継がしめ、長女に本間清光を配して池新田村、本間丸尾両家を興さしめた(この段端折りすぎか?)」
しかし大石外記五代前の「大石三河守憲儀」の件についての信頼性は高いのかと。
大石三河守憲儀は永享の乱で鎌倉永安寺に籠った足利持氏の追腹を切っています。弟の大石憲重も同座していたといいますが(永享記に「大石源左衛門尉憲儀」の名で・・・)、足利持氏攻めに関しては駿河守護の今川範忠の出兵がありました。
しかし拙ブログにかつて「三の姫さま」を記していますが彼女は持氏の三女といわれています。
持氏は鎌倉の情勢不安定を危惧して今の高天神城の北に娘を疎開させたというのが通説で同行した家臣では「大澤」と「佐束」の名が地元に残ります。
そこで思うのが鎌倉の持氏と今川のパイプの存在がかねてからあったのではないかということです。
ということから持氏と死を共にした大石の子息を駿河(当初富士川善徳寺と)に招いて家臣として取り込んだのだと推するところです。
そののち大石外記は三浦との一件(昨ブログ)もあって氏真を見限って高天神の小笠原を頼ったというところでしょう。
大石家は各家との姻戚を結んだということを「名家」であることを理由に記しましたが、私は主君足利持氏と潔く腹を切った大石兄弟の美談というものが三の姫伝説と同様に囃されてその血筋をわが家に取り入れたいという意図もそれぞれがあったのかとも思いました。
また大石といえば高天神城近くの渥美源五郎屋敷跡を思い出します。現在の屋敷の所有者は大石家となっていますね。
そして磐田の泉蔵寺の渥美源五郎の名が中心に記された墓碑を見れば大石三河守憲儀の名が併記されています。
「永享十一年」(1439)の銘もしっかり判読出来て素敵!です。
前ブログでの画像は直立修正しています。
実際は今にも倒れそうな墓石でした。磨滅と剥離が進んで相当怪しくなっていますがこの墓碑は大切に保存していただきたく思いました。場所はこちらになります。5年ほど前に伺った図だと思います。
ちなみに上記遣新羅使「大石蓑麻呂」の万葉集歌とは
「石走る(いわばしる) 滝もとどろに 鳴く蝉の
声をし聞けば 京し思ほゆ」
拙寺境内の朝は既にセミの大合唱はありません。
墓石再訪追記―20171010
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河東村出身者 (土曜日, 02 9月 2017 06:04)
ありがとうございます。なるほど名家ですね。
残念ながらまだ活躍をあまり見つけていないので、今後資料を注視していきたいと思います。
(残念ながら南紀徳川史の名臣傳の大石家は「中泉郡」となっているので別家のようです)
今井 一光 (土曜日, 02 9月 2017 08:27)
ありがとうございます。
また「永享記」を今一度見渡せば「大石源左衛門尉憲儀」の名が
でてきました。
失礼しました。