私の大口たたきもそんなもの。
ハリルの感極まった涙の通り2-0で日本の勝利。
開始前は気温22℃と絶好のオーストラリア日和と思いましたが
開始早々私のオーストラリアへの幻想が顕在化、家族に罵倒されながらほくそ笑む「奥の墓道」氏とのラインでの実況感想合戦を終えました。
年末まで「鰻重とカレー三杯」の予算工面が課題となりましたが、楽しく観戦させていただきました。
ハリルの感慨はひとえに「井手口」の抜擢の妙ですね。
衆人知られたホンダをベンチに下げて若衆が走り回っての勝利。この件、これまでになかった日本代表チームの采配で、往々にして「なんで出さなかった」という監督に対する声が怖くてできないものなのですが、英断でしたね。
若い代表選手が育つということと、その中で「自分でもやれる」という気持ちが広がって選手層が厚くなります。
それに反して有力選手の欠場もありましたが、オーストラリアは途中でベテランのケーヒルを投入するなど、采配がいたって古風。パスサッカーを目指しているようですが、サマになっていませんでしたね。
決定後のサウジアラビア戦は湿度95%と凄いコンディションですが、もはや日本はリゾート気分(消化試合)。反面サウジは血眼になって勝ちを目指しますので怪我の無いようにうまいこと90分過ごすというスタンスですが、あまり点を取られてサウジに勝ち点を与えるとオーストラリアに恨まれましょう。
オーストラリアはタイ戦で勝ち点3と大量得点を目論んでいるのですが、タイが善戦すると思わぬ3位が待ちうけていますので。
さて、三井山砦の画像(すべて冬季)がありますので昨日に続いてupします。
三井山砦は武田方の伏兵を追い立てたのちに設けられた砦ですがのちに武蔵川越藩初代藩主、上野厩橋藩初代藩主と出世した
三河西尾城主、酒井与四郎重忠の持ち口だったと言われています。
いつもの「高天神の跡を尋ねて」から引用すれば、こうあります(他説ありますが・・・)。
「天正六年九月十三日、徳川方大須賀康高三峯山(昨日ブログ)に出兵し、高天神城兵と戦う。久世三四郎弓矢を以て城兵多数を射て功を立てた。同十月八日大須賀康高三峯山に出て城兵と戦う。坂部三十郎(廣勝 横須賀七人衆の一 坂部治兵衛正定の兄)十八歳、敵将野中郷左衛門を討ち取った。
天正七年九月十三日大須賀康高二百余の軍勢を率いて三峯山及び麓の地方を焼働して城兵を追手門に追撃した。同年十月中旬家康は三井山に高天神包囲の為六砦の一つを此所に築き酒井与四郎重忠の持口とした」。
家康が時間をかけてこつこつと包囲網を狭めている様子がわかりますね。勿論三井山砦に関しては高天神大手口に睨みを効かせる要衝ということもあって若手の起用は考えられないところだったでしょう。
三峯山は周囲展望がひらけて横須賀城とも直近かつ高天神城の南にあって海側からの兵糧を監視するうえでも重要地点。画像①②は昨日の櫓の上からの眺望ですが、天正期となれば海はもっと手前にあったはずですね。③は三井山から北を見たところですが、木が邪魔をして北側はよく見えませんでした。冬でもこの通りですから。三峯トータルで見れば規模は大きく感じられますが、小笠山砦と比して三井山砦そのものではそう大きくは感じられません。何しろ小笠山砦は山深く谷も深い「堅牢」を感じますからね。
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河東村出身者 (金曜日, 01 9月 2017 08:20)
御無沙汰しております。
三井というと高天神/横須賀衆の三井孫左衛門光忠が想起されますが、三井砦との関係はどうでしょうね。この辺が三井氏の本拠に近かったのでしょうか。
今井 一光 (金曜日, 01 9月 2017 09:50)
ありがとうございます。
拙HPの『「高天神崩れ」の推測』に当初高天神城に籠城した兵の中、三井孫左衛門光忠が本丸、三井弥七郎が西の丸と2名が顔を出していますね。
三井山砦は往古から三つの井戸があったことから呼ばれたといい、元は大日堂があったといわれています。
推測ですが地元の名所として古くからあった名称としてその名を姓としたことも十分に考えられますね。
籠城兵周辺には横須賀衆の顔ぶれもあって当家惣領として光忠が居たと考えるのがスジ。有力武将であったことも推察されます。
酒井とも (金曜日, 01 9月 2017 11:18)
こんにちは。旧大東町の三井区は「太田・中川原・寺部」の小字を併せて三井区だと思っていました。三つの井戸や大日堂が由来とは知りませんでした。
第一次高天神合戦の折り、本丸に籠った三井孫左衛門光忠が「三井」との関係が想起されて勉強になります。
ただ高天神衆の三井氏を検索すると、近江六角氏・佐々木氏流れの三井氏があり、始祖信尭から8代目の乗春が三州八幡村(現豊川市八幡町)に移住、11代目の光忠は「生八橋村、仕神君、丸ニ三引」
後胤は和歌山藩に仕え勘左衛門高栄の代で途絶えたようですね。
今井 一光 (金曜日, 01 9月 2017 12:41)
ありがとうございます。
近江六角配下、鯰江城の「三井」があります。
当時各所から遠州を目指すことも散見されて(拙寺先祖も同様)近江出自等の距離は
珍しいことではありません。また紀伊といえば横須賀衆の方向性からいって
さもありなんという感覚になります。
しかし確証を得ていない説で推測の域を出ていないような気もします。
酒井とも (金曜日, 01 9月 2017 13:08)
こんにちは。度々のレスですみません。そうですね、検索サイトの情報は確証が得られていないもの多々あると感じております。お許し下さい。
ところで、私の拙い調べですが、「三峰山」の一つの宗兵衛山の麓の報地に江戸初期より現在も居住される、大石宗兵衛家の親戚筋の小笠原善宗清廣の諱が「宗兵衛」ですので、戦国期には小笠原清廣の領地もしくは屋敷が在った可能性があります。
そして江戸初期に紀伊へ移った小笠原宗兵衛善宗清廣由来の屋敷地を譲られたのが、大石宗兵衛家だと考えております。
因みにですが、宗兵衛清廣の子の玄蕃義時の娘が、和歌山藩士の大石新次郎家に嫁いでおります。
この大石新次郎ですが、大手池の段の戦に戦死した、大石外記義久の子で和歌山藩士の新次郎久末の次男で、後に荒瀬弥五左衛門家を継ぐ荒瀬氏か、三男の大石立本に比定するかと思われます。
今井 一光 (金曜日, 01 9月 2017 15:21)
ありがとうございます。
「宗兵衛山」からの各ご教授いただきありがとうございます。
大石外記氏久は今川氏真時代に三浦宗有の差配に異をとなえて今川を相反し、
高天神城の小笠原に招かれて大坂の「保地村」を与えられたと言いますが、それが
上記「宗兵衛山の麓の報地」かと。
もともと今川に大石家が(鎌倉から)駿府に招かれたのは「遣唐使大石麿」の
末裔とのことで当時でいえば当家は名家の一つ。
その著名なる家柄の大石外記は武門にも人間的にも長けた人だったことがうかがわれ
周辺各家が大石家との姻戚関係を望んでいた風を感じています。
遠州高天神周辺にも「大石」姓は比較的多いのですが、他家において特に横須賀衆からは一目を置かれていた家としてDNAは繋がっていると思われます。
河東村出身者 (金曜日, 01 9月 2017 21:15)
三井の名字に合わせて地名と三つの井戸が出来たのかもしれませんね。
大石姓はてっきり土方の東の大石かと思っていたのですが大坂の方なのですね。
興味深いです。
今井一光 (金曜日, 01 9月 2017 21:24)
ありがとうございます。
当然に分散していた可能性もありますし何ともいえないところでもあります。
少々端折って記したという感もあります。
ブログにて追記したいと思います。