余命数週間と告知された方が病床で「『さわやか』のげんこつハンバーグが食べたい」と仰っていた事を以前記しました。
ご家族で何とか病院から連れ出しその希望を実現したということを聞いて少しばかりの安堵を得たのでしたが、空しくも数日前に亡くなりました。
医者の見立ての通りでしたが致し方なし。
まだ若かったこと(30代前半)もあって父母に祖父・母兄姉の悲しみはご年配者のそれとは明らかに異なるものがありました。
通夜葬儀はカンタンに、ということで市中看板も出さずに拙寺本堂にて「おくやみ」の式を挙行いたしましたが、結局は一般と変わらないものになっていました。
やはり空調の効かない本堂ですから朝の出棺の際より私は「血圧の高い方は特にご注意」ということですすんで水分の摂取を心がけるようお伝えしていました。
午後からの葬儀が終わって仰天。
初七日法要に移ろうとする時、「今、救急車を手配しました」と。何のことやらサッパリわからない私は思わず「え~」でした。
見ると本堂の脇で座布団の上に寝かされている年配の方(75歳)が。周囲には声を掛けている近親者が取り巻いていました。
聞けば本葬時の焼香の際、立ち上がった瞬間に変調をきたしたそう。驚きました。
焼香からその時間まで約20分はあったでしょうか。
それまでそのまま寝かしていたなんて・・・驚愕の事実。
「熱中症みたい・・・」と周囲の一同は私に。
私はこの寺の「AED担当」ですので、スグにその推測を捨てて、意識と呼吸・心機能のチェックのため脈拍を計って頂きました。
ごく正常ということで私の出番はなし。救急の到着を待ちました。すると血圧の上が80ということを告げられて搬送、かなり心配しましたが榛原病院到着後、しばらくして「何事もなく復活」の報を聞いて安堵した次第です。
聞くところによると通時高血圧で血圧降下剤を服用していたといいますが、火葬場で飲酒したところに緊張がピークに達して卒倒したとのこと。
葬儀式のまっただ中であることを忖度したのでしょうが、事後ではありましたが担当者に「その必要はない」と告げ、「これは与えられたテーマ」であると会社に持ち帰って検討すべきと提案しました。
緊急救命についての研修会出席へ葬儀担当者すべてが出席するなどして、イザという時の対応に遅延が無いよう心掛けなくてはなりません。
その為には葬儀式であろうが読経中の僧侶の背中を叩いて中断させるという判断もあってしかるべきですね。
それに憤慨するような坊主はいないでしょう。
この時ばかりは厳粛な葬儀であろうと坊さんにも忖度は不要です。
さて、カメラを首にかけ、史蹟を目指して住宅地を歩いている際、「通報されたかも」と思われるシーンが何度かあったことを記しましたが、それはカメラ=観光客を推すダミーグッズとしてのカメラ小僧の姿であって本来の目的が別の何かにあるのかまたは撮影対象が不謹慎なものなのかを問う警戒です。
先日の小田原墓参りの小田原行脚、表記「くんだり」などと記せば今小田原に住まう人々のお怒りをまたもや頂戴しそうですが、
カメラを持って立ち停まってキョロキョロしていれば殆ど不審者呼ばわりされても致し方なし。「それって盗撮じゃん」と息子に言われて「ハッ」とさせられました。
昨年も丁度この頃の小田原のこの件を記していますが1年経ってもあの駐車場址は発掘調査中①②。
道路脇を通過中、フェンス越しに見えたトレンチの中から顔を出す木柱らしき物体に目が留まりました③と④。
何が出てきたのでしょう、きっとそろそろ現説があるでしょうね。フェンスの小さな隙間から撮影しました。
①②は新しくできた立体駐車場の北側を見た図。⑤⑥が同南側からの図。⑤は現在の小田原城が見えますが⑥は八幡山古郭総構の東郭の図になります。大森氏時代の城域はこちらから西の方角かと。
東海道線の通過する場所との高低差は、工事による掘削を配慮したとしてもかなりのものがあります。
ちなみに駅側から古郭方向に向かう橋が「青橋」で、たしか戦時中の艦載機の銃弾が貫通した痕がありました。
下図は小田原駅前をうろつけば必ず参る北条氏政と氏照の墓。
本日は大正十二年(1923)9月1日の関東大震災で被災した一統の墓について復興の碑をアップしました。
9月1日といえば震災を今一度思い出す日ですが、今の教育界で最大の危惧「子供達の自殺が一番多い日」であります。
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