玄広恵探と栴岳承芳 血統と根回しの差 藤枝普門寺  

ご長寿記録(第三位)を伸ばした台風5号は紀伊半島上陸後に急に北進して滋賀県東部を通過したのは驚きでした。

てっきり伊勢湾経由で名古屋そしてもしかすると当地を目指すコースもありうるのかという予測もありましたが、朝からの姉川が溢れたのニュースには驚きでした。

先日は野洲川を渡っていた際一昔前の増水にて堤防上部ギリギリまで水が届いて付近には避難勧告も出たという話を聞いていましたがその野洲川と姉川は大きさ的にそうかわらない大河です。河川敷も広くまさかあの川が溢れるとは思いもしませんでした。

もっと驚いたのが朝のニュース、湖北の「高時川」の氾濫寸前の報です。木之本地区の「高時川」といえば昔からの水争いの教科書の如くいわれる川、通常時の水の流れなどごく柔らかなものです。それが氾濫するなど余程の水量ではなかったのでしょう。水争いの川が溢れるとはまさに皮肉のようにも感じられました。

 

これはひとえに山が近いということが理由でしょうね。

「あつめてはやし(最上川)」の通り、川の流れというものは各支流が合流して大河となるということでしょう。

たくさんの雨が一気に集合するということですね。

どちらの川であってもそれはありうるということがよくわかりました。川のほとりに住まう人は勿論行政ご担当はそれを心にして「事前準備」を怠りなくしておかなくてはなりません。

 

「事前準備」といえばその対象となるものは各種あるワケですが人間関係でいうと今云う「根回し」なる活動も不可欠だという好例がありますね。

 

まぁ彼の場合はそれ・・・家督相続をまとに信じて人脈作りをしていたとは考えられませんが結果的にその活動が功を奏したというところでしょう。

 

彼とは標記、「栴岳承芳」(せんがくしょうほう)のこと。

今川義元の出家名で通説今川氏親の五男、ということで母は寿桂尼。以前は、「栴岳」を「梅岳」と記していましたので「ばいがくしょうほう」と覚えたものですが、現在歴史世界では、「栴岳」(せんがく)が主流。

これは崩し字書体が「栴」と「梅」が酷似していたための写し間違いから始まったといいます。

よって当ブログでも今川義元の出家名は、「栴岳承芳」(せんがくしょうほう)ということで。

 

玄広恵探(げんこうえたん)は彼の兄(通説今川氏親の四男)です。私の個人的な感覚ではずっと彼の名の方がなぜか親しみやすく記憶の隅から引っ張り出すことができました。

今川氏に詳しい方ならともかくこの二人の名をひょいと口から出て来るという方はなかなか歴史にお詳しい方と想像できますし。

 

今川義元の家督相続についてとりまく周囲の状況は疑問が残るところ多々あって、結果的に兄の玄広恵探の勢力を一掃して勝利した義元の「何かの抹消作業」もありうるところですが、特に家督を相続した長男の氏輝に次男の彦五郎(五郎・彦五郎は今川家家督相続者の幼名・・・氏輝病弱説あり 氏親が指名示唆したか?)

がが同じ日に死ぬという不可思議。

 

やはり僧籍に入った三男の象耳泉奘(しょうじせんしょう)は還俗を放棄(実際に泉涌寺・唐招提寺の長老にまでなるほど)し六男の今川氏豊は尾張那古野城主として他家に入ってしましたので家督争いとなったのは標記の二人ということになりました。

 

花蔵殿の別称のある玄広恵探が花倉城に立て籠もって反旗を翻したのは(花倉の乱)高天神城主の福島正成(「くしま」読みが通説)の担ぎ上げがあったからといわれていますがこれは、玄広恵探の母親が福島一族から出ていたためと云われています。

 

玄広恵探の母親が氏親正室の寿桂尼ではなく側室の息子であるということはある意味「家督の件は後回し」の雰囲気を醸し出しています。

表向きの血統の違いに決定差はあるもののまぁ側室の子が家督を相続することはままあることですからその件を無視したとしても、「その時」は栴岳承芳→今川義元に名乗りをあげさせようとする狙いがあったことは確かですね。

 

太原雪斎に引き連れられて京都への就学経験は特筆すべきところ。母親寿桂尼のコネクション(父親が藤原北家勧修寺流中御門家当主)を最大限に利用して公家や将軍家とも親密な付き合いをしていたことはうかがい知れるところ。

 

小和田先生はその根回しの速さについて栴岳承芳→「今川義元」名乗り、還俗して家督を取りますのお墨付きを早々に得たことだといいます。玄広恵探も「今川良真(ながさね)」との名のりがあると言いますがその名を比較してもちょっとね・・・という感は否めません。

 

「義元」の「義」が凄いのです。

これは小和田先生も絶賛のところですが、12代将軍足利義晴の偏諱をちゃっかりと受けてからの家督相続の宣言だったのです。

それも上の方の字です。義晴の偏諱は多数に与えていますが「晴」の方が圧倒的多数ですから(信玄・・・武田晴信)。

ちなみに六角義賢(承禎)の「義」も彼の偏諱でした。

 

この「義元」こそ将軍が承認のお墨付きを与えたということ以外の何物でも無い証です。これは寿桂尼と雪斎の「その時」を想定した根回しの結果でしょう。見え見えの福島家専横政治の将来を嫌う家臣団の傾向もあったでしょうが殆どの今川家臣団は義元を選択したのでした。

 

玄広恵探「今川良真」の自害したと伝わる普門寺と玄広恵探の墓⑦(場所はこちら)。お寺とお墓の位置は違います。

墓は⑤の藤の瀬会館の北側になります。最後の画像が墓地から道路側(東側)を見た図。

③の普門寺の掲示略歴には「栴」ではなく「梅」の使用と今川良真の名が。