真宗大谷派が呼びかける「3.11を忘れない」という主旨の「勿忘の鐘 わすれなのかね」と同様、やはり「忘れてはならない」①広島②長崎③8/15について鐘を衝こうと梵鐘のある寺に呼びかけがあったのは一昨年からの事。
勿論拙寺も賛同させていただいています。
といいながらも檀家世話人の方たちが言いだした?ことで、鐘衝きは全部おまかせ。
昨日も8時過ぎに世話人さんがスタンバイしているところを挨拶、「よろしくお願いいたします」と。
私は前日に「1分間隔あけて7回」と簡単な会話をしたきりで、すべてをおまかせしていたのですが、実際は「1分間に7回」の「超早打ち」。私は家の中で少々手が離せない仕事をしながらその1分間をすごしていました。
驚きましたが既に遅し、でまぁ致し方なし。
次は私が鐘を衝くことにします。
鐘衝きの最大タブーは連続打ちですね。
共鳴が消える前に打つと共振して梵鐘自体が割れることがあるといいます。
この田舎の寺が梵鐘を衝かなくともNHKスペシャルは特集番組を放送しますからあの悲惨な爆弾の件、忘れる人はいないでしょう。まぁその気持ちが大切なのですが。
そして新たな切り口による(昨日は被爆者のビックデータ)真実の放映は新たなショックを私たちに提供しました。
タイトルは「原爆死」(広島72年目の真実)でしたが、数々の人の死とそれに伴う筆舌に尽くしがたい苦痛を垣間見た思いです。
医師が語っていた「あの爆弾は軍事目的ではなくただ市民を狙ったもの」との言葉はその「異常性」についてあらためて思った次第です。
「内部被ばく」(粉塵や黒い雨―放射性物質を浴びたり吸い込む)によって人々が死したこと(急性原爆症)についても語られていましたがビックデータ(被爆者55万人のそれぞれ)の解析から新たに多くの人々がそれを原因として死を招いたことが分かってきたそうです。
お国の方ではその
「内部被ばくを原因とする原爆症への罹患は極めて少ない」「健康への影響は認められない」の主張をこれまでずっとしてきたとのこと。
調べもしないでいい加減な事をのたまうということはやはりご都合主義と言われても仕方ないですね。
さて、知恩院の墓域について、戦国期終焉を飾る悲哀の主人公と言ってもおかしくないあの姫様の墓があります。
まさに「家」というものに翻弄されて誰もが「気の毒」と思わされる人生を過ごしたであろう千姫です。
徳川秀忠と江(浅井)の長女で7歳で大坂の豊臣秀頼に嫁ぎました。家康からすれば、その位置は「念のため」ココ一番のポイントであって外すことはできないところですね。
大いに政策的、まぁポーカーのカード、将棋の駒の如くです。
豊臣秀頼(またはこちら)滅亡の大坂夏の陣ではうまいこと脱出させられて、本多家(忠勝系 忠勝の孫 本多忠刻)に嫁いで桑名→姫路と第2の人生を歩みますが、本多忠刻にも先立たれて江戸にで晩年を過ごしています。
知恩院の宝塔は分骨。寛文六年(1666)に亡くなっていますので六十九歳の生涯でした。
続いて近くにある層塔。「吉子内親王の墓」とありますが彼女は霊元法皇(水尾天皇の第十六皇子)の第十三皇女といいます。まぁこの数字ざっと見て思うに一体何人の奥さんと子供がいたのかとため息が出るというか呆れるばかりの数字・・・
そして彼女は生後1ヵ月(幼名は八十宮)で七代将軍徳川家継(6歳)~最年少将軍~と婚約とまさに今では考えられないような政略婚姻。
皇室→将軍家といういわゆる「降嫁」となるところでしたが「納采」という結納の儀が終わってスグ幼年将軍は死去。
結果この二人の件、バカバカしいほどの記録づくめとなります。将軍家継は最年少将軍としてありましたが、最も早く亡くなった将軍でありまた、吉子内親王が後家さんになった年というのがなんと1歳と7か月。
気が付いたら旦那が亡くなっていたという例でした。
彼女の場合は再嫁は憚られたというところでしょう。
18歳で出家しています。儀式儀礼のアホらしさの一面。
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