昨日の当地。
朝方の風の強さに涼しさを感じ、夏至の候よりも明らかに太陽高度が変化したことに気づいて「秋」の気配を感じたのですが最大のそれはツクツクボウシの声を間近にしたことです。
そして先般の滋賀県内で見た36℃には至りませんでしたが私の車の寒暖計は午後3時には35℃を示していました。
もう「35」などいう数字は慣れっこになっていて逆に朝方の「27」の数字に目を丸く(涼しい!)したりしていましたが、これから近いうちに「40」なる数字を見るかもしれないという状況に「ゆでガエル」を思ったところです。
コワいもの見たさというか、その感覚を味わってみたいという気もありますが年配者等の健康管理が大変でしょう。
そして海水温も上がることになりますから台風が頻発し、お盆休みどころではなくなってしまいそうな気もします。
何よりも沖縄のサンゴ礁が死滅してしまうでしょうから(白化現象)海が枯れてしまいますね。
あの厄介な動きの台風5号は8月初旬の天候不安定を決定づけました。今のところ私どもの「被害」といえば朝方の風で植木鉢2本が倒れた(どなたかが直してくださいました)ことぐらいでしたが何故か午後には無風状態。ああいう台風が近海にいると天候がまったく読み切れませんね。
九州直撃は免れないのでしょうが、あの位置にいるにもかかわらず駿河湾は荒れ気味、波の音がここまで聞こえてきます。
ちょいと海水浴場を覗いてみたくなって立ち寄ると、案の定海の家はガラガラ。
晴れた空には熱い太陽がギラギラしていましたが、海は荒れまくって海水浴どころではなかったですね。おそらくあの超がつくほどの低速台風によってもう数日の間、日本列島は翻弄させられるのでしょう。
台風本体の接近によって「本来の台風らしさ」を出現させることになるのでしょう。
さて静岡の瀬名あたりから北街道を駿府城や静鉄の「セノバ」(旧新静岡センター)方面に向かう途中で私がよくワープする道があります。そのまま直進してしまえば静岡の中心、繁華街を通過することになりますので。
ここで国道1号線にワープしておいた方が「まだマシ」という判断です。
その道は踏切につかまらなければスンナリと行くところです。
その踏切とは静鉄の清水線という鉄道ですが、前述の「セノバ」から出ています。
北街道から入るその道は「きよみずさん通り」の名があるように清水寺の名から。その丘陵に清水山公園なる名称がつけられています。
その清水寺といえばどなたでも(こちら地元以外の方であれば)京都の清水寺を思うでしょうね。
たまたまの偶然?、とも思うこともありましょうが山号まで同じ「音羽山」を名のっています。
だいたいこの辺りの地名も「音羽町」ですから、取ってつけたような名ではないことは察しがつきます(場所はこちら)。
こちらの寺の由緒は掲示板の通り、今川家臣、朝比奈丹波守元長の建立といいます。今川氏輝(義元の兄)が亡くなった際、寺開創を遺命したといいますが、武田侵攻によって焼失したものを家康が再建しています。
こちらのお寺の本尊は千手観音。
現在観音堂に鎮座する仏は家康寄進の恵心僧都作伝承といいます。ただし素人目の所感ですが、源信さん(恵心僧都)と言えば阿弥陀信仰、「なんで観音様でも千手観音?」と思うところ大。
こちらの丘陵(谷津山)をブラついていて見回せばそれなりに石仏、石塔等を見ることができます。
参道を登り出してスグ左手の森の中に江戸期(享保十一年 1726)ではありますが層塔が。
ご近所の有徳人が寄進したものでしょう⑥⑦⑧。
⑨観音堂右脇には例によって明治初期の廃仏毀釈で首が飛ばされた石仏がちらほら。扇動されて行き過ぎた行為に出た人々がこちらにもあったという証です。
⑩の祠の2体が静鉄沿線工事中に出てきた石仏。
そのため、おそらく祠は静鉄が建てたものでしょう。また年一回法要が開催されていると聞きます。⑪少々変わり種の石塔が祠の隣に。こちらは墓石ですが、江戸期にこの上にあったお寺から出たもの?
真言系研修道場としてあったこちらには檀家はありませんので民間墓地は見かけられないですから。
そういう点からも「公儀」からの恩恵が多い寺だったことが窺われますので、「石仏の首」というものは往々にして飛ばされることになります。
⑭は観音堂の上にある熊野神社。⑮がトップになりますが、そもそもは古墳があった場所です。周囲の木々を伐採すれば駿府周囲を一望にできるロケーション。駿府の鼻先にあって城郭としての機能を持たせないワケがない立地です。
一番最後の画像が芭蕉の句碑。
「駿河路や はなたちばなも 茶のにほい」
その前の画像が「音羽の滝」? 道路側の公園にあります。
下が昨日の相良のビーチ。
8月盛夏の殆ど1/3の商売あがったりの様子。
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