3日続けて朝の雨。有り難い。
前日は「どうせ夜降るだろう」と水やりをサボっていましたが予想はバッチリ。
昼間は今手掛けている床張り大工仕事。ぼちぼちです。
さて駿府城代で駿府で亡くなった松平勝政という人は元は水野家(水野忠分五男)の人。
先代の松平康俊が男子不在のまま亡くなったために松平康俊の娘に婿として勝政を入れて家の存続を図ったというところでしょう。
松平康俊が亡くなったあとに急遽決めた話ですので、異例ですね。
何故にそれほどの配慮がされたかといえば・・・家康の母「於大の方」の強い希望があったからといいます。
松平勝政の段、ブログ表題に「久松松平」と記しましたがその系統には3つの流れがあるうちの1家ですが、それらの三流とは家康の三人の弟たちからということになります。
水野家へ追い返された母親於大が再嫁したのが久松俊勝。
要は於大と久松俊勝の子供達ということになりますが、松平康俊は久松俊勝の三男です。
そういうことで息子の家の断絶を快く思わなかった於大の方が水野家からうまいこと引っ張り出して収めたというところでしょう。
しかし「義父―実母」から生まれた弟(妹もいる)という今では結構変則的な家族関係ではありますが、何と言っても「将軍の弟たち」ですから引き上げられない理由はないでしょう。
松平康俊も母於大の方と同様、若き頃から極めて不安定な成長期を送っています。
家康は康俊を駿府の今川氏真に人質として送っているのです。
武田によって駿府陥落時は甲州に送られて挙句武田の人質。
あのドサクサでよく命がつながったものかと不思議なくらいです。
於大さんからすれば腹が立つことでしょうが、家康からすれば降ってわいたような(ひょっとして失っても痛くもない)「親族」であって利用価値は絶大「持駒」「カード」として大いに活用したというところでしょう。戦国期の「人質」という条件交渉の選択は当然のことではありますが、生死はまずは半々。
2度の人質というと単純25%の生存率、ある意味凄い幸運な人でもありました。
しかし若き頃の苦難は34歳という決して長くはない生涯に繋がってしまったのかも知れません。
墓地は浜松西来院の築山御前の廟の真っ隣になります。松平康俊の法名は「澄清」。画像①②③.
広い墓域には江戸期の五輪塔、石塔がちらほら。夏場はやはり蚊の餌食。
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野村幸一 (木曜日, 27 7月 2017 12:28)
西来院、こんな感じなのですね。父方の本家のお墓がこちらにあると最近知りましたので一度は墓参したいと思いますが、いつになることやら…
父方祖母の墓参すらできてない…
ひとつお伺いしたいのですが、本堂裏手の墓域でかつて私どもの本家墓があった場所ですが今は所有者はおられますか?
今井一光 (木曜日, 27 7月 2017 16:39)
先代の時代のことでハッキリと断定できないのですが、まずここだろうという場所はわかります。そちらはまだ空いたままになっています。