梅雨明け宣言が出ていないのが不思議。
盂蘭盆会法要の昨日の本堂はHOTでした。たくさんの皆さまにお集まりいただきました。ありがとうございます。
先週金曜のNHK「歴史秘話・・・」は今川氏真でした。
「戦国一華麗な敗者復活戦」という副題。
内容はこれまでの氏真無能のイメージとは違っていました。
武士としての生きざまとしては失格の烙印を押されるはずの「戦わない」「生きながらえた」ことが後世大いに「子孫繁栄」として開花したという構成です。
これまでの氏真イメージを覆して逆に「だからこそ」と好印象をもたらすもので番組の意図として「戦国」ではなく「平和」な世にこそ意義があるという風にも捉えることができました。
「私には敵もいないし恨みもない」という中国人のノーベル平和賞受賞者、劉氏の言葉も胸に響きました。
国家としての中国の愚かさを改めて思うところです。
文書を書いて国家転覆罪で収監されて犯罪者呼ばわりされる国ですからね。
その罪とは今の日本の共謀罪がポケモンの如く「進化した」ものと承知していますが、中国政府として都合悪しと思ったのでしょう国外からの劉氏死去のニュースは画面が真っ黒。情報操作の意図はむしろ「相変わらず滑稽」を思いました。
小田原から脱出した氏真が「ノー天気」に浜松の家康のもとに訪れた際の図は、いかにも氏真の「ひょっとしてアホ?」を思わせるシーンでしたが「家康はオッサンにして氏真は青年」の如くの演出でした。
ブログでもどこかで記していますが実際は氏真の方が5歳ほど年上です。番組はちょっとヤリすぎの感ありました。
ふむふむと唸ったのはさすが小和田先生です。
「あの城」のことを「牧野城」と。番組内でも統一していましたね。
現在その城の名は「諏訪原城」と呼ばれていて誰もがその城の名を違和感なく使用していますが、その名は「武田の城」になってしまいます。
地元教育委員会は敗者である「武田」に肩入れしたかったのか命名された「牧野」については完全無視を決め込んでいます。
通常ならば最新の名称か、カッコ付け等併記するなどで矛盾を回避しようとするものなのです。
氏真が入ったのは武田を追い出したあとの話ですから厳密には「牧野城」。ひょっとして小和田先生は「牧之原市」の名のイメージを全国に広めようと一役買ってくださったのかと勝手に思うところです。
氏真関わりの文献では「諏訪」なんぞの城の名は出てきませんし。
牧野城は島田市(旧金谷町)ですが、相良あたりから「牧野城」(牧野原城)の名を押し出そうなどと考えてみたところです。もっとも諏訪原城の名すらこの辺りの皆さんにとって親しみがある名ではありませんので「牧野と言われてもまったくちんぷんかんぷんかも知れません。しかし「牧野」の方が受け入れられやすいことは確実です。
城の名は「牧之原台地」の発祥と同様「牧野原」からと言われています(牧野氏が城普請に関わったという説もありますが)。
まぁ氏真の掛川城開城しての退去は「いずれ駿府に戻る」ことが念頭にあったことは確かでしょうが、「武」の主張をもって雌雄を決しての「家の存続」を図ることの限界を察知し、違うカタチでの「家」というものの継続をチョイスしたというところでしょう。
画像は現在の杉並区今川二丁目にある観泉寺の氏真と北川殿の墓、そして代々の墓。その墓域には卵塔形式も含まれていますがそれらが僧籍にあったかは不明です。
夫婦の墓は二基とも当初の墓地から改められています。
私がこちらに参ったのは雨の中で画像は不明瞭。被葬者の戒名もロクに確認せずに退散しました。
江戸期の宝篋印塔の大き目二基、右が氏真、左が早川殿とのこと。
氏真以降代々の墓域となりますが、氏真の嫡子今川範以の墓もお隣に並びます。範以室の吉良上野介義安娘の墓もさらに仲良く。
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