当時も水量多そう 宇治川先陣争い 梶原景季

前夜から安定した天気を予想してその日の動きを家中で宣言していたものの朝からパラっときてからの「遠州南部大雨洪水警報」の発令にはまいりました。

朝一番の浜岡でのお盆のあげ経は小雨とも言えないくらいのポツポツ状態で何の苦渋もありませんでしたが、湿度はかなり上昇ギミ。

帰宅してからもその発令に敬意を表して自宅待機を決め込めば、それ以後こちら相良では一滴も雨が降りませんでした。

 

陽ざしも出て「何のこっちゃ」と言いながらせめてゴミ出しでも・・・と水屋の花ガラを軽トラに積み込んで処分場へ。

帰宅してテレビの画面を前にびっくり、中部から関東で大雨が降っていました。

やはりこちら相良は太平洋岸にちょこっと突き出している地形が効果的なのか(どこかで記しましたが私の「前線通過は国道1号線」論の通り?)同じ遠州でも他所とは違っているようです。

 

それにしても犬山城天守の落雷?による「鯱の欠損」の画像も驚きました。あの程度で済んだことは良かったですが、「誰があそこへ上がって修理するのだ」と余計なところまで心配する私がありました。

国宝指定ですから、お国の方で面倒を見てくれるのでしょうかね。足場の工作からでしょうが、酷い散財でしょう。

自然の驚異をまた一つ感じさせられました。

 

さて、梶原山梶原堂の墓碑の如く駿府で亡くなった梶原景時一統ではありますが、景時本人の義経との不仲からの「噂」、頼朝への義経排除の画策としての「腹黒い男」の汚名(もっとも北条家による演出が見え見え)は彼の嫡男の梶原景季には及ばず、景季そのものへの世間の風当たりと後世の評価は悪くはなかったようです。

 

梶原景季といえば佐々木高綱とのエピソードが有名で戦働きとしては勇猛さが伝わっています。

源義仲(木曽義仲)は政に関しては後手に回ってというか後白河法皇にいいように利用されてからキレギレになって、あの法住寺殿を焼き払ったワケですが、その後の対頼朝との戦闘とその後の滅亡は予見していなかったでしょうね。

 

歴史を俯瞰してその頼朝も殆ど「道化の如く」(結果として北条家の台頭を許した)のですが、当時の戦争状態・・・治承・寿永の乱はまさにトーナメント方式(ノックアウト方式の勝ち抜き戦)の如くでした。

殆どベスト4くらい?まで勝ち上がっていた木曽義仲は頼朝の弟たち(範頼・義経)との決戦で敗れたのでした。

範頼・義経も結果的に頼朝によって「敗者の兵」を余儀なくされたのでしたが、そこまでうまく詰め将棋の駒の如く兵たちを駆使して征夷大将軍となった頼朝もカミさん(政子)と実家(北条)には、「してやられた」というところ。

昨日は今川義元の妹、龍泉院について記しましたが奥方というかその実家次第ということでしょうか。恐ろしや。

 

範頼は京都を占拠する義仲軍を正攻法であたる本軍となり近江の瀬田にて今井兼平と乱戦(もっとも今井500対範頼3万で)、義経はその背後を迂回して一旦南下、宇治川を渡って都を目指す木曽勢挟み込み作戦をとりました。

 

その義経勢に従ったのが梶原景季と佐々木高綱で、二人の宇治川渡河に関しての先陣争いが語り草として伝わっています。

渡河一番乗りのお話は畠山重忠らにもありました。

色々と二人の関係やら人間性やら面白いところが伝わっていますがその辺りは割愛。

 

私が今春宇治川辺りをほっつき歩いた際は護岸工事中で肝心のその戦の顕彰碑はどちらかに移動されていました。

現在河川の護岸工事は当たり前の如く、適宜拡大されていますが、こちら宇治川でもいまだ手を加えなくてはならない箇所があるようですね。

 

話は飛びますが護岸工事をすることで流れは速く深さは深くなりがちになりますが、その際はこれまでの橋脚の強度を補強しないと橋が流されることになります。

そういう工事は「手抜き」評価の部類になると思いますが見落としがちになるところ。

 

先般「柵」(しがらみ)で触れましたが水量と漂流物についてはリスク、耐力計算は必要ですね。特に護岸の嵩を増したり周囲にコンクリートを敷設したら・・・

 

古から人々の生活は河川氾濫との闘いであることは間違いないところですが、堤防護岸についての技術がまったくもって脆弱な頃ですから、「水は溢れて当然」の考えがあったワケで、時として川以外の地を水が流れることは普通にあったでしょう。

そういうことから人々は定住地をある程度の高台に絞っていたはずですね。現在は堤防を100%信じ切っている私たちがあります。

「ナスD」(テレビ番組)を見ているとアマゾン流域には堤防らしい堤防などはありませんから、低地に住む人たちの家はみな高床式でした。

自然には抗わないことが徹底されているように感じました。

 

話は元に戻って、その頃の宇治川。ある程度の流れはあったでしょうが、今のような深さはなかったと思われます。

 

碑が設置されている場所は「浮島」②③④あたり。

山側から合流して来る川は結構な激流振り⑦。

これからの季節は鵜飼の季節です。

舟遊びとともに賑わう観光地ど真中となりますのでこちらも私は敬遠すべき場所となります。

 

先般清水寺でも記しましたがこちらも早朝の観光客のいない時間帯狙いでした。

 

下図一番左の梶原景季の旗差し「並び矢筈(やはず)」が見えますが梶原堂の紋は「丸に矢筈」でした。