瀬名二代目 松寿院殿 瀬名氏貞 松寿院墓域

昨日は年に一度の病院アトラクション(人間ドッグ)の日。

お楽しみのオプション選択は当家奥方の仕事です。

日程から内容までのお膳立ては勿論、事前申告書まで書いていただいて私はただ病院に向かうのみ。

 

しかし早朝ダッシュの順番取りは肝心で7時に家を出て(遅すぎた感ありましたが)「3番」のチケットをゲット。

これだけは指定の時間「8時10分までに受付」を真に受けていたら酷いことになりますから。

毎年「次は1番」と思っていてもこのようなものですが、3番はほぼ先頭集団ですから待たされてイラっとさせることはありませんでした。

 

今年はバリウムではなくて胃カメラ、そして心臓エコーに心臓冠動脈のCTが入っていて時間がかかる事は覚悟していましたが、途中の医師の問診と血液検査やら血圧等の判定から「CTをやったとしても異常ナシの確率が高い」と仰ったことと、造影剤点滴による重篤後遺症発症例の説明と署名承諾に怖気づき「ヤメタ」を決め込んで早々に帰宅してきました。

 

これにより当初の予算が30000円以上浮いてしまいました。

この結果は私の「体調管理の成果」ということ「リスクを取るのは私である」を理由に「成功報酬」そして「小遣い」を打診しましたが敢え無く「バカか!」と一蹴されてしまいました。

来年のオプション「脳ドック」に回すようです。

 

尿酸値の高さを指摘されたのはいつもの如くでしたがあの「行ったり来たり」の中、血圧が「上  117」の数値は絶妙でした。

しかし尿酸値の高維持など以前でしたら「お酒も飲まれないのに・・・グルメでいらっしゃる・・・」と痛烈な皮肉を含ませながらの「痛風」ケア程度で済んだものでしたが、今の医学界では高尿酸値こそ動脈硬化の要因であって脳いっ血、心筋梗塞に直結すると・・・「ヤバイよ」と脅かされました。

 

医師が何度も説かれていたことが

「腹八分目」「一日20分のウォーキング」「継続は力なり」です。あと「食事後30分は横になるな」と。

昔の人の言っていることはウソではなかったことに気づきました(牛になる―反芻する―胃から食堂に戻る―逆流性食道炎)。

 

さて昨日も記した梶原山からその西麓の地はのちに今川義秀改め瀬名弌秀一統が居館を構えた場所。瀬名弌秀の菩提寺光鏡院

あたりがその中心といわれますが、その南隣に瀬名氏二代目の氏貞の菩提寺があります。

 

御一統の寺として光鏡院があるのですから、何もこちらに新たに菩提寺を作らなくてもいいのでは?とは思うところですが、まぁいろいろあるのが親子関係というものなのでしょうが。

代替わりの度に当主の寺を建てるのではキリがありませんからね。

この瀬名氏貞の次男義広が関口氏の養子に入って関口氏を継承、当初瀬名義広。その後今川氏親の偏諱、瀬名親永を名のっています。瀬名親永の娘が築山殿。

 

お寺は住宅街の奥。一見わかり難いですが、案内板があります。

向かいのマンション入り口にある番地のプレートを目指していただければ・・・(場所はこちら)。

 

古い卵塔も並んでいますので創建時の寺域は光鏡院と変わらなかったことでしょう。

石塔の不完備も明治期に何らかの圧力と縮小を余儀なくされた感があります。

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コメント: 2
  • #1

    野村幸一 (火曜日, 11 7月 2017 01:22)

    風変わりな墓石ですね。瀬名は私の身内も以前住んでおりました。

    風変わりな墓石というと鐘楼の脇にある私の先祖の古ーい墓石。先日伺った時に間近で見てデカいと思ったのですが、そもそもお墓の全貌はどんな感じだったの?と、イメージすらもできません。あそこに並ぶ他の墓石の中にまだ当家の誰かの墓石があるのかな?と思いを巡らす今日この頃です。

    家系図本は一応は完成ということではありますが、探究はまだまだ続くのでありました。

  • #2

    今井一光 (火曜日, 11 7月 2017 08:40)

    ありがとうございます。
    平安末期に生じた宝篋印塔や五輪塔形式の墓石はざっと真言の流れです。
    その発祥を無視して(宗旨の違い)、というか鎌倉期に発生した「鎌倉仏教」以降も
    墓=五輪塔のイメージが固定していったかと思います。
    私ども真宗系も当初は開祖の墓であっても五輪塔使用を示唆する史料が複数あって
    矛盾を生じさせているくらいです。
    というのは真宗の教えと五輪塔等の本来の設置思想は異にするものがあって
    (主に五輪塔等は追善供養)、時代が下るうちに徐々に宗旨的統一性が求められていき
    「浄土真宗に五輪塔は使用しない」というのが常識となっていきました。
    よって真宗の墓石は「サイコロ型」に統一されていったのだと思います。

    小さな五輪塔は一石のものがありますが、大抵は最低でも5つのパーツに分かれて
    います。
    宝篋印塔や五輪塔の美しさはそこにあるのですがパーツに分かれているということは
    バラバラになるということで、大きな戦乱に巻き込まれたり自然災害にあえばたちまち
    元の形状に戻らなくなってしまいます。また明治初期の暴力、「廃仏毀釈」による損傷も多かったはずです。
    そうなるとパーツが散逸したり他の同形式のパーツ合わせをしたりしがちです。
    よって現在に至るまでまっとうなカタチを保ちつつそれらの石仏が残存するということは極めて珍しいことだということです。
    今、世間の大部分の古い墓地で見られるその類の石塔はそのバラバラの憂き目にあってどなたかが「とりあえず」と無理なパーツ合わせをした結果ですね。
    よって「変なカタチ」と思われがちになるのです。
    ということで本来の建造者や被葬者縁者の「見ていたモノ」とは違うワケです。

    画像⑥のパーツ重ねはそこのところが如実に現れていますね。
    装飾性や美術品という域には入り得ませんが、当流のサイコロ型統一はシンプルで低価格とても効率的だと思います。

    墓石は家長が更新することにその存在感をあらわしたのですが、古い墓石はまず大抵、
    石屋さんが回収処分しています。「家」としては古い墓石にこだわらなかった部分もあったと思います。

    今、寺に残っている墓石は稀な部分で、それを探索するのも悪くありませんが、逸失しているものが大多数であることは事実です。
    以前にもお話ししたことがありますが、相良の海岸にある古い墓地にも御当家縁者の墓がありました。最近行っていないので確かではありませんが・・・。