矢崎とは矢面に立たされたこと? 梶原堂の宝篋印塔

お斉で榛原在住の方と話しました。

現市長の引退ということから次期市長がいったい誰になるのかというとこ・・・。

ポイントは旧榛原から二人が手を挙げているようで一方の旧相良から手を挙げようという人が今のところ不在という点。

相良の人たちからは、榛原出身の市長だと「ますます相良が置いて行かれる」といった雰囲気があると私がいえば、榛原の人たちはずっと相良の後塵を拝する思いでいたといいます。

 

どちらから市長が出ようがもはや旧町どうのこうのと言っているレベルではありませんね。

まぁどっちもどっちと言っちゃあ何ですが、前途多難であることは変わりませんからね。

しかし相良住民からすればご近所から出た市長がイイに決まっています。

 

一昨日は藤沢の妹家族が墓参に訪れました。話題は九州朝倉の災害の件。

私か聞きかじった九州「朝倉市」の地名の発祥は天智時代の「ちょうあん」にありそれを漢字で記せば「朝闇」。

闇→暗→倉と転じたのでしょう。そちらには今も「朝闇神社」なる社があるそうですが、その地の伝承に近くの池の水を汲むと大雨が降るというものがあったようです。

倉」という字は「長者」を示唆するとも思えますがその転移は「朝闇神社」周辺の「長安寺廃寺」の存在があるということから頷けます。「長」はいわゆるキラキラネームへの転移を推測します。「長らくの安寧」は人々の願いであって深読みすればその真逆の歴史があった・・・のかも・・・というところ。

 

また、お隣の「日田」の語源は「干た 引いた」の如くで「水」を意識させます。

 

その辺りを知ったかぶりをして妹家族が住む藤沢大庭、羽鳥地区の水害の歴史を示唆する「引地川」の字面の表す意を勝手に論じました。古い地名には「改変とそのまま」があるもので、「何かショッキングな事象」があったとしたらまず地名として残るものと。

私は「大地を引き裂くような河川氾濫」の過去があったと自論を展開・・・。

文書には残っていない地歴の推測でした。

 

さて瀬名一秀の「西奈→瀬名」という地の光鏡院(またはこちら)の東側の丘陵が梶原山。梶原氏一統33名の滅亡の地です。

その山の南東側の地、東海道にほど近い、現在は東名高速道路の高架と平行して走る街道筋に「矢崎」という地があります。

交差点にもその地が記されていていました(場所はこちら)。

 

そちらの交差点を山側にほんの少々入った場所に梶原堂という殆ど祠のような、かつてあった寺院(龍泉院)の面影のみを残す堂が建っています。

住宅地で細道ですが、石柱が建てられていますので石柱を見つけた段階で広い場所に車を置かせていただいてから徒歩で目指しましょう。お堂まで行こうとすると車のすれ違いが難儀な場所となってしまいます。

 

このあたりは現在は住宅地になっていて平らかに削平されていますが、大掛かりな造成工事があったからのもので、かつてはもっと山が張り出していた場所。その山腹にあって幕末前に焼失した龍泉院の跡地もろとも山が削り取られたとのこと。

龍泉院は室町初期に梶原景時、長男景季、二男景高その他一族を弔うために建てられた寺で、その際に建立された供養塔石仏がこちらに移されて堂の裏に並べられています。

 

状態は決していいものではありませんが、形式としてはやはり古き良きカタチがうかがえます。

「昭和五年」とはっきりした年代がありますので、何らかの調査資料が残っているのでしょうその頃は「墓も刻字もしっかり」していたとのこと。延文五年(1360)十二月二十八日の銘が判読できたそう。

 

墓は造成工事やら酷く無下に扱われた時期があったのでしょう、現状風雨にさらされての摩滅もありますが、こういう石仏遺構は放っておけば壊れますので、これ以上の崩壊を防ぐためには何らかの対処が必要となります。

地域によってはこの手の石仏は覆堂に納められていても不思議はない代物です。出所が明らかなものですからね。

文化財を後世に残しておこうという感覚が少々希薄なような。

彼らが朽ちていく姿は心苦しいものがあります。

 

以下光鏡院脇、梶原山公園に上がる道の入口に掲げられた看板。

 

看板③の「矢射タム橋」なる地名から推測してこちら「矢崎」の地名を梶原一族が矢面に立った地?を思ったところでした。