柿本(山吉田)城新設登城路 満光寺裏宝篋印塔

九州地方から今度の台風での被害の報がありました。

突風でお寺の本堂屋根が吹き飛ばされた画像は衝撃を受けました。あの規模の台風なら「ちょっとした低気圧が発達したくらい」と高をくくっていましたが実際の強風の様子を見て自分の知識や感もアテにならないことをあらためて・・・

ということで拙寺本堂は午後から正面の戸は閂で押さえ全扉を閉鎖しました。

また背の高い鉢モノは軽トラの荷台に詰め込んで避難させました。台風のコースはやはり運・不運ではありますが、最悪のパターンは加味して早めに対応することだけは心がけています。

 

さて、柿本城(山吉田城)に関して「登城路が見つけにくい」→「登城路が作られていた」までを記していました。その登攀路の整備はなかなかの苦労があったことはうかがえますが、城の本丸へ行ってまた驚かされました。

 

道の駅の裏の満光寺が本丸直下であることは見当がつきましたので本堂裏手からの道はかつてあったことは違いないところ。

要は手入れがされず放置されていたために道が消失していたのでしょう。

 

本丸付近は以前は木々が乱立していましたが、それらを伐採して戦国の城の如く風の雰囲気に仕上げていました。

おそらく形状変化をさせない程度(学術調査の障害とならない)

の演出でしょう。

とにかくお気軽さは以前とくらべて10倍。あの時は登攀路さえ見つけられませんでしたから。

 

相良には戦国の城、滝境城がありますが、民地で茶畑となっていて「整備しよう」などの声は上がってきません。たくさんの人たちの力でここまでやり遂げた姿を見て感動しました。

 

本堂西側からの登城中、本堂の裏側に墓域があって祠があります。鈴木重勝・重好の宝篋印塔がありますので「開基堂」の戸を開けさせていただいて参拝させていただきます。

井伊谷三人衆のひとり鈴木重時の父親が重勝で重時が堀江城攻略で落命したためその子の重好が家を継ぎました。

お堂の中、向って右から鈴木重勝と妻、鈴木重好と妻と言われます。

 

堂の周囲にも同時期に建立されたであろう宝篋印塔が数基建てられています。相輪が太めで長く全体的に長細く見えます、隅飾りも開き気味で製作年代はどちらも江戸期かと・・・