蓮華王院東通 法住寺殿 後白河上皇宮廷址

火事の恐怖は常に頭から離れません。

一昨日のニュースでは新潟は三条のお寺の火災について報じていました。

私は同じ立場にある者としてその災禍に絶句しました。

出火は本堂からで、ご家族は庫裏に居て無事だったよう。

状況から察するに本堂での何らかの火の不始末が考えられますね。先日も色々火種について記しましたがそのちょっとした扱かい方、僅かな原因(始末)が致命的結末を惹起します。

 

寺としてそのような時の近隣迷惑は必定であると再確認させられたのはその寺院火災の周囲の住民の証言でした。

こぶし大の火の粉が風に乗って飛んできたそうで小規模ながら七件の家屋に延焼したとのこと。

同じ新潟の糸魚川で昨年の12月に発生したラーメン屋さんからの火災では「147棟」を焼失させたといいますが火災の被害者となることも加害者となることも絶対にあってはならないと再々確認した次第です。

 

火種について記したブログでは年配者の免許証返上によって拍車をかけるが如く心身が衰えてしまうので、高齢者運転もある程度致し方ないと擁護の気持ちを記しましたが、昨日は高齢者マークの車両にギリギリのところでその洗礼を受けるところでした。

ノンストップで車線に合流(右折)してきた車のドライバー(女性)は本線を直進しているこちらには一切目視無し。

自車の進行方向のみにしか目をやっていませんでした。

 

幸いにして低速でしたから何とかハンドルで回避しましたが、私どもは口を開けたまま、車を停止してしまいました。

私は「運がよかった」と口に出して胸を撫でおろしたのでしたが、「本当に幸運だけで走っているのはあの方」であって「自分が幸運であることさえもわかっていない」ことの皮肉は笑うに笑えないものがありました。

 

午後の明るいうちのショッピングセンターやスーパーから出てくる車は要注意ですね。その手の現場での事故をよく耳にします。生鮮食品を買い込んだ達成感から一刻も早く帰宅したいという気持ちが先走るのでしょうか。

近いうちに重大な事故に遭わないとも限らない様子でしたね。

 

昨日のニュースでは車両をハイテク化してリスクを低減させる「限定免許」の提言がされていましたが、「認知力の低下」こればかりは人によって相当の差異がありますし車も高価になりがちでしょう・・・。

まぁ私の方もアテにはなりませんし、「幸運だけ」」という状況は多々ありますが・・・。

 

火災は人の過失、重過失によって甚大な被害をもたらしますが、どうにもならないのは故意ですね。

今でこそ故意でその手の事をやらかせば・・・最近では静岡市内でいたずら半分で神社に火をかけて少年たちが逮捕補導されていましたが・・・大層な刑事罰と大きな損害賠償費用の支払い義務が発生(未成年者の場合は親権者―世にはたくさんいるはずです)することは必定。

 

ただし歴史的に見てとなれば寺に火を放たれる事は「戦につきもの」ではありますね。 

拙寺でも高天神城戦で火をかけられていますが、のちに家康が再建してくれています。

しかしそういったスポンサー(有徳人)が不在の場合は大変です。

その手の奇特者が出現するまで、中には100年も200年もかかってその間は住職不在の「荒れ寺朽ち寺」の時間を経るものですね。それだけ寺を建てることほどの難題は無いワケで・・・。

 

さて、本日も蓮華王院三十三間堂の東の通。養源院のお隣のお寺です。南大門の記述で方広寺の南限としての南門と「都」としての門について記しました。それは秀吉の方広寺南大門ということで収まるのですが、まんざら「都」の様ではなかったとは言い切れない土地柄でした。

何故ならば秀吉よりはるか昔のこの蓮華王院の敷地というものはこちら法住寺、いや「法住寺殿」と呼ばれた後白河上皇の宮廷

の址でした。

流れとしては法住寺殿→法住寺・・・蓮華王院→方広寺大仏殿ですね。

 

平家滅亡に至る平安末期の戦乱を「治承・寿永の乱」と大雑把にひとくくりでいうことがありますが、実はその戦乱の一つに、教科書には出てきませんが、この法住寺が主体となる「法住寺合戦」がありました。

 

その際に法住寺は灰燼に帰すのですが、その戦いの主が私の信奉する木曽殿こと源義仲でした。その寺を焼いたということです。

後白河上皇とまともに対峙してその法住寺殿(城砦化していたといいます)を焼き払ったことは上皇の二枚舌に対する義仲の怒りも最たるものだったのでしょうが、当時は「天下に刃向かう武士の狼藉」として驚愕すべきニュースだったでしょうね。

ある記述には市中、火焔と煙で「万人迷惑」と見えます。

 

そういう経緯から後白河上皇が亡くなったあとはこの址に陵墓がつくられています。

住寺御陵は法華堂と併設されている通り、当然に仏式となります(場所はこちら)。

墓は養源院と法住寺の間の細い道を入ります(案内あり②)。