沖縄に引き続いて鹿児島奄美が梅雨明けとの報せ。
あの青い空の下で「無駄に時間を使う贅沢」を味わいたい欲望は今年も抑え込んで健全な住職生活の実践。
画面に広がる透き通った瑠璃光世界を見ながら溜息を吐いていると「お前はまだそんなところに未練があるのか」と言わんばかりにお方さまは鼻で息を・・・そういえばこちら相良が私のお浄土。最大の幸福でした。
ちなみに瑠璃光は薬師如来、「東方」の代名詞でもありました。
さてブログでも何度か記している私の好きな禅語「動中工夫」、もっとも禅語とはいっても私の知っている唯一のものですが・・・かなり昔に奈良国立博物館で見た大慧宋杲(だいえそうこう)の語を記した『白隠墨跡〔中字〕』(はくいんぼくせき〔ちゅうじ〕)です。
カンタンでわかりやすく説得力がある語としてスグ当時「私の座右の銘」としていただいたものでした。
「座右の銘」を聞かれるシチュエーションは滅多に訪れることはありませんが、万が一何かの機会に尋ねられることがあったとしたら・・・それが滑らかに口から出てこなかったとしたら、やはり困りますね。
ましてやアドリブで適当な言葉を吐いたとしたら収まりが悪いモノがあります。
まぁ好きな言葉としては「一所懸命」という語がありますが「一所」を「一生」にはしないなどという能書き付きで説明、悦に入るのもイイのですが、あまりにも月並みですからね。
ということで「動中工夫」。
その「中字」とは「動中工夫 勝静中 百千億倍」のこと。
私が自覚している不注意・多動性・衝動性の性格を思いっきり自己肯定する意も含んでいました。本来の意味とは違うようですが私なりにイタダキでしたね。
また、現在の座右の銘は「いかにも 身を捨ててこそ」に変更済み。こちらは牧之原市の御朱印案内の住職紹介で披露しています。禅語もイイのですがこちらは空也さんの発した語ですから浄土系に修正したというところです。
前置きが長くなりましたがこの「動中工夫」の語を先日新聞紙上で見かけました。
勿論禅宗の住職の談でしたが、お寺の掲示板を使ってメッセージを外に向かって働きかけることをそれに喩えていました。
そのお寺が磐田の見性寺です。
ブログではかつて日本左衛門の墓⑤で記しました。
ご住職は40年間続けて毎月1日に新しい文言を掲げているそうですが、すばらしいですね。
以前の私は寺に入ってから「時々更新」していましたが最近はサボりどおしです。ブログの方に偏りすぎている感は否めませんね。
そちらのご住職は当初の掲示板は仏法の教えが主だったそうですが、最近は戦争に関わる文言が増えたとのこと。
それも当然、違和感はありません、仏法は殺生を嫌う教えですからね。
何より今の政治は戦争を是とする風を感じますし。
国民を守るという意気込みは武力ではなく対話であることは子供でも知っている当然の事。その力量というものを政治屋が持ち合わせていないということなのか、やはり武器を作って消費して一儲けしたいのか・・・戦争ごっこをしたがる傾向が強いように思われます。
私は子供の頃はそのお遊びは大好きでしたがとっくに卒業しています。今度磐田の見性寺付近を通りかかった際は掲示板を拝見することを楽しみにしています。
《テロと報復で社会は絶滅危惧種》
《足枷の九条から平和の楯の九条に》
《不戦から可戦の国へ向かってはならない》
ご住職は
「世の中がきな臭くなって、みんなが火種を集めている。
その火で自分も熱を帯びる。そんな悪循環を感じる」
最近「火事」について記していますが本当の危うい「火」というものは私の心の中に潜んでいるということでしょうね。
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小山昭治 (金曜日, 30 6月 2017)
戦争はしてはいけません。
内戦が起きている国の原因は何でしょう。
なぜ 防げなかったのでしょう。
ヒトラーだって日本の開戦時でもいつの間にか
戦争が当然となる思想。
怖いけれど世の流れ。いつからそんな流れになってしまったのか。
しっかりと見極めなければなりません。
それでも 迎合してしまうのです。
人間はいい加減な生き物です。
流れに流され、逆らうことを忘れる。
でも それが人生の流れともとれます。
すべては因縁の流れ、縁あっての流れ。
あれ どこか矛盾してるね。
今井 一光 (金曜日, 30 6月 2017 09:47)
ありがとうございます。
やはり私が想うそれ、収まるところは空也さんの
「すててこそ」だと思います。
人々もまたその集合体の国家というものも「執着」を捨てられれば
争いは起こらないとの考えです。
そう簡単にはいかないからこその「あるべき姿」ですが少なくとも
為政者による「自分の為 お友達の為」の露骨な発露はいただけませんね。
傲慢尊大が目立ちすぎです。
人は生きるために自己の極限否定はできないことですが、法外な自己主張自己防衛
ばかりまかり通って反対意見を罵倒し、自己を顧みる反省のスタンスが欠落する傾向が
うかがえます。その教科書が永田町の魑魅魍魎。
「ああなっちゃいけない」はわかっていてもそれは捨てられず、こと地位とカネには
また弱い。
『カネの切れ目が「縁」の切れ目』などいう言葉も古いものではありませんね。
カネと地位が繋ぐ「縁」がいかに儚いものかも歴史が教えてくれています。