本日もひきつづき火事について。
「出火」の原因を考えるとやはり「火の不始末」が断トツであることは思います。
お寺でいえば線香・ローソク・炭に関しては一般家庭と比して特異であって常にケアすべきものと心得ています。
その三種のグッズの他、着火用のマッチは意外にリスキーな代物です。
お内陣のそれらについては私の注意と責任に於いて消火作業の完了を旨としますが、外陣の一般参拝者用の焼香については皆さんにおまかせするしかありません。
お内陣の灯明の管理は私はすべて燃えカスの残らないライターに統一していますが、外陣のそれはそういうわけにはいかないのです。
「ライターが使えない」という年配者からのクレームです。
最近はことに子供の火遊び防止のために各メーカーはカンタンに着火できない仕組みが導入されていますので、それもその筈です。よって「マッチを用意して欲しい」という要望が途絶えませんね。中には「マイマッチ」を持参しての参拝があるほどです。
ところがこのマッチの燃えカスはやはりその「始末の悪さ」というものを感じますね。年配者となると失礼ではありますが、その取扱いが粗雑となってしまいます。
それを見越して不燃材のシートを敷いていますが時折そのカスが落ちている様子を目にして愕然とさせられています。
まぁどちらにしろ火を使う事が多いお寺にいて、何より人一倍そそっかしい私は自身原因の「ヒヤリ・ハット」は幾度も経験していますが。そのたびごとに「自分ほど信じられないものはない」と思うくらいです。
ということで運転免許証の件もありますが単身住まいの年配者の台所仕事について別居している家族はまず大抵はその「禁止令」を出す事が多いですね。
これもやはり日本の文化「他者への気遣い、配慮」の一つでしょうが自動車運転も火災も当人のリスクは当然ながら「他者加害行為」(火災でいえば近隣延焼)の芽は摘んでおきたいところです。
その家族の心配によって「奪われる」利便2件の場合、大抵は免許証から。その後徐々に「限界」を考慮されて火の使用の停止となる順番となりますが、私の感じるところですが「自動車運転の停止」と免許証の返上を行うと、「崖を転がり落ちるように」自分のことができなくなるという傾向があるような・・・。スグにでも火の使用も危うくなるような状態になっています。
ちなみに最初から車の運転をしていない人というのはまぁ比較の仕様がありませんが、急激に衰えるというきっかけとなりうるものは大病あるいは骨折しての入院ですね。
車の運転ができなくなったことの不便がより精神的な苦痛となってまたこれまでの対社会、接触交流機会の激減はあらゆる身体の「衰弱」を進めるのではないでしょうか。
齢を重ねて自動車免許証の返上は最近のテーマとなってはいますが、返上した途端に「なんでこんなに・・・」と激変してしまう年配者を見ていますので、なんでもかんでも「免許証返上」を推奨する気にはなれなくなっています。
車の運転という作業が如何に脳の働きの維持と身体運動機能に役立っているのか・・・一考すべき事でもあります。
さて、昨日ブログで記した養源院。その通の前が三十三間堂というロケーションにあることを記しましたが、奥にある門が「南大門」とだけ。その門についての追記です。
位置的に見て、三十三間堂の門でないことは推測できますし、そもそも「南大門」という名称も不思議です(場所はこちら)。
「南大門」の使用の例といえば
①「君子南面す」の「都」か②大規模寺院の南門のこと。
では北方を振り返れば・・・ざっとブチ当たるのは七条通の向こうに京都国立博物館の正面玄関。
そこで気が付くのは方広寺大仏殿(今は豊国神社)ですね。
この南大門は方広寺の南限だったということです。
等々)のスケールがいかに大きかったかがわかります。
かつて蓮華王院三十三間堂はその方広寺境内に取り込まれていたということでもあります。
築地塀は太閤塀と呼ばれていてこの門とセットで重要文化財。
これだけの建造物を振り向かないというのは勿体ない。
拝観料はタダ。門の通行は自由。
公道同様で車人の往来もあります。
ただし勿体ないのはあの景観。
人家と接していて京都らしくてイイかも・・・という方もいらっしゃるかも知れませんし、私の如くの部外者の無責任な意見として記しますが、門の向こうに見える喫茶店の看板と民家前の自販機はどうにも絵的には不服。
広隆寺の画像をアップした際は電線電柱の不細工が目に入って「京都はいったい何やっているんだ」と思ったものですが・・・
京都の景観条例について詳しく知りません。
⑥画像は南大門を背にして北方を見たところ。
⑦は博物館入場口から見た南方。
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