ある会社経営者が拙寺本堂に「密かに」掲示してある「朱印」を見て「これはイイ」と賽銭箱にお代の200円を入れる様子が目に入りました。
その方は最近になって朱印集めをするようになったそうですが、「本願寺は朱印を出していない筈なのに・・・」と返されてしまいました。
私は「町の要請」「町おこし協力の流れ」の件を説明して了解をいただきましたが続けざまに面白い事を仰っていました。
奥様から「どこへ行ったのか」問われるのでこの御朱印は堂々と「ここ」と主張できるアイテムとなるようです。
御朱印どころか免罪符にもなりうるということがわかりましたが、そこでこちらには日にちが記されていないので都合のイイ日にちを勝手に記せば、いよいよ有力なアリバイアイテムとなりますよと。
さて長篠城はもう何度も記していますが(前回はキモカワメシ)伊那街道沿いのトイレ休憩とそのついでの城内のブラつき散策を重ねていてもその要害性についてはあまりピンとくるものがありません。
寒狭川(豊川)宇連川が合流するV字の断崖と絶壁に囲まれた難攻不落の城と言われてきましたが、城側から見てその手の感じはあまり伝わってきません。
まぁ街道側(北側)からは現状何らの障害もなくあまりにもスンナリと駐車場に入れますから。
よって本日画像は牛渕橋の真ん中あたりから見た長篠城を。
こちらの橋(場所はこちら)はまさに上記2つの川が合流した地点に架けられていて城を南側から見ることができます。川というか断崖の渓流のイメージがハッキリと伝わってきます。
当時は城内を望むに樹木などの遮蔽物は無かったと思われますので両対岸と城内で怒鳴り声が飛び交っていた状況が分かります。画像④⑤ともに飯田線の豊川鉄橋が見えます。
城の本丸の下、宇連川沿いに走る現在のJR飯田線の敷設によって破壊された野牛曲輪(「殿井」画像①②)の名に、牛渕という橋の名(③)と「牛」繋がりは興味が湧きますが、それよりも宇連川対岸の地名に注目。
坊貝津・舟津・中貝津・新井貝津・鍛冶屋貝津等々、よく見渡せば長篠城側にも点在しています。
この「津」の文字は「みなと」であって舟着き場の存在を示唆していますね。
またそれぞれに「貝」の文字が見えますが、「海産物」の陸揚げの物流拠点であったことが推察されます。
川の名が「豊川」というくらいですから豊川経由で渥美湾に出ることができます。⑥は橋から見た下流方面。新東名高速の橋脚が見えます。
橋を西に渡ってスグ、飯田線の踏切の名称が「篠原」。
語源は「長篠」の「篠」と同一でしょうね。踏切を渡って北方向が豊川でその向こう長篠城となりますが、その位置が鳥居強右衛門が磔に架けられた場所になります。
長篠城の面白さはこの踏切と橋から・・・
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