気軽にライブ映像が撮影できて一瞬のうちにその映像が世界中に配信される時代。
便利といえば便利ですが、そういった映像先行の感覚を皆が持つことは往々にしてまた結果的に扇動利用されることがありますので受け手としては注意が必要です。政治なども「劇場型」と呼ばれるようになって久しいものがありますが、「悪代官」も台詞と演出次第では大衆を操作できるようです。
本年の流行語大賞候補NO.1は「忖度」で間違いないところですが2番目の候補として「印象操作」が俄然追いかけています。
これこそそれを発するご当人がシナリオを描いてその通りに「劇」を進めているように感じますが根底にある方針としてあるそれ(操作)がつい口から出てしまったのでしょう。
しかし誰もが想う見え見えのインチキをお仲間総出でたすける構図は「お涙頂だい」ではありますが、どなたかも仰っていましたがもはや「忖度とは(度を越えて)損得」であると。
お役人さんも御身大切。国民のためには動けません。
さて、昨日は長岡京市の開田城を記しました。
鎌倉期あたりからの土豪の成長と繁栄の址を見た思いでしたがこちらの近隣で少々京都寄りの街道筋となりますが、室町初期からその名を知らしめていた氏族がありました。
地名としても残っていますし、その街道の名としても今も知られています。それが物集女荘の物集女(もずめ)氏です。
古くからは「乙訓郡」でしたが現在は向日市になっています。
街道名としては西国街道から分岐する「物集女街道」という名称がありますが、勿論こちらには物集女氏の城館物集女城の址が今も残ります(場所はこちら)。
堀跡や土塁も残存しているようですが現状私有地(畑)となって標識と看板を見て満足するだけでした。
たまたまどなたかが居られたら事前許可も得られるというものですが・・・。
城址図面を拝見するに、やはりお決まりの国人領主系の館の如くですね。
物集女の語源は「百舌鳥」(もず)説が有力だそうです。その名を聞くと私は仁徳天皇陵の「百舌鳥耳原中陵」を思い出します。室町初期に土豪領主として頭角を現した物集女氏ですが、古来からこの地は物集女と称していますので「物集女住」からの名のりからであることが想像できます。
物集女の名が残るのは細川藤孝が勝竜寺に入ったころまで。
物集女忠重入道宗入という人は信長への服従を良しとしなかったようで天正三年(1575)に勝龍寺城で殺されたといいます。
ということで、近隣に「物集女さん」の名は見つかりません。
前に記した三氏(久貝・神足・中小路)の名が残っていることは一族すべてとは断言できませんが、それなりに織田―細川に従ったグループだったのかも知れません。
それにしてもこの「物集女」読みは面白いですね。
不思議なのは物集女にはいくつかのそれを冠とした地名が多くあること。そして物集女城の北東の「物集女クヅ子」という地名には一瞬の可笑しさを覚えてしまいました。
字面だけを見れば「物を集めゴミ(クズ)とする女性」を思いますから。
ちなみに「クヅ子」は「クヅネ」読みのようです。
詳細不明です。
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