昨日の大河ドラマ。
まぁ台詞ですが・・・まず「ばかっつら」。そして「しょんない」その他・・・まさに遠州の方言が使われていて思わずニヤリ。
まぁそれらは私の中高生時代以来、口にはしていませんでしたが。どっちかといえば、恥ずかしさをも感じる言葉です。
番組の終わりのワンポイントの解説コーナーは地元では「火坊(ひぶせ)」でお馴染み秋葉神社の紹介でした。
番組内「井伊家が材木の商い」を行ったという流れにつなげて天竜域にいかに木材が豊富にあったかを伝えていました。
樹齢500年の杉は圧巻でしたね。でも・・・待てよと・・・「助かったのだ・・・」と思ったのでした。
皮肉というか教訓的な言い回しに「秋葉山から火事」というものがあります。
読んで字の如く防火・火災防鎮の神が鎮座している秋葉神社が火事になることを言いますね。
この地区では今も、拙寺の「火用心」ではありませんが毎年そちらの発行するお札を購入してどこかしらに貼り付けているお宅が散見できます。
まぁ今でいう「消防署が火事」のような類だと思いますが。
この「秋葉山から火事」の話は実は実際にあった話でした。
私はこの件は先般亡くなった昭和三年生まれの永田(旧姓野村)さんから聞かされていました。
父からその話が聞こえて来なかったのは当時予科練に駆り出されていたからですね。
以前記したことがありましたが特攻の船舶版というヤツです。早いとこ戦争が終わったため生きながらえたというワケです。
その話は昭和18年の3月。雨不足と遠州の空っ風と呼ばれる強風の中、山林から出た火が延焼して神社が消失したといいます。付近の山林も広く(1369ha)焼失したといわれていますのでそのテレビ画面で見た樹齢500年の杉の存在には「へぇっ~」と思ったのでした。
永田さんの話でインパクトがあったのは「西の空が赤く見え」なおかつ「灰が杉の葉のカタチのまま舞ってきた」という話です。
同じ遠州といえど天竜と相良では相当な距離がありますからね。
当時の管轄消防団の多くがあの「金属回収令」で出払っていたということも初期消火が遅れた理由だとも聞きます。
ブログでも紹介している通り、この「金属回収令」によって拙寺の梵鐘が供出させられました。
檀家さんのおかげで昭和30年の再鋳造がかなったのでしたが、私が父がやめていた「除夜の鐘」(現在は除夕の鐘)を再開する必要があったのはその経済的余裕のない時代に檀家各家が力を合わせて資財を布施したことです。
梵鐘内にはびっしりと記された寄進者の名が。その皆さんへの感謝の気持ちをそれぞれの縁者とともに1年に一度だけですが、実際に衝いていただき、まさに「正覚大音 響流十方」(嘆仏偈)の風を体感していただきたかったのでした。
さて、今一つ直虎の台詞といったら「煩悩は滅した筈だったのに・・・」がありました。
臨済の僧でありながら井伊家の頭首となった直虎の言葉です。何か歴史ラブコメディ?の様でもありましたが真面目に坊さんらしく私がここで思ったことは、そもそも仏教には「煩悩即菩提」という語があるではないか?というところでした。
臨済宗について何も知っていることはありませんが・・・。
とにかく私は「煩悩」という語に反応しやすくなっています。
それは何よりも私が煩悩だらけに他なりませんが。
その煩悩というと、三毒(貪欲・瞋恚・愚痴)のうち現代の最大テーマとして「瞋恚」が挙げられます。
「瞋恚」をやさしい言葉に言い換えれば「怒り」ですね。
上記「火用心」ブログにて記していますが、「心の中に燃え広がる火」でもあります。
私が檀家さんに配布したその「火用心の手拭い」の意図は「火」そのものの恐怖もそうですが「心中燃え盛る怒り」をも同時に「おそれるべきもの」としてお伝えしたかったのでした。
また三毒のうちの他の貪欲や愚痴もつまるところそれらが「思い通りにならない」シチュエーションになった場合、強弱はあるにしろまずは「怒り」に発展することは必定ですからね。
市中いや世界中にその「怒」が蔓延している時代、どのようにそれを少しでも解消していくかというのも私どもの仕事の一つ。仏教文化を伝承し、より理解しやすく解釈し民衆に広がった平和思想(兵戈無用 ひょうがむよう)~「無量寿経」~ともいえる仏教思想を受け継いだ日本人としての役目でもあります。
当流には上記「煩悩即菩提」という語に酷似している「煩悩即涅槃」という語があります。
親鸞聖人が記した「正信偈」の「不断煩悩即涅槃」です。
「煩悩を断つ(滅する)ことなく涅槃へ」です。
簡単に「涅槃」を言い換えれば「正覚」であり「覚り」「解脱」・・・「浄土」「往生」ということです。
ちなみに「そうか煩悩は滅することはないのか・・・」といって我が物顔に振る舞うことを「本願ぼこり」(欲望のままに悪事を行っても良いと思い込む)ともいいました。
「悪人正機」に通じる考え方でもありますが、そういう「早とちり」はイケませんと警告があったものでした。
その「煩悩を断つ(滅する)ことなく・・・」には条件がありました。それがその句の直前の「能発一念喜愛心」です。
「能発一念」は世間でよくいう「一念発起」と同じような語ですが、ただ「他力」(阿弥陀如来の力)という「私の本来の意図ではないもののおかげ」のような感覚が入っています。
その力によって「喜愛心」が発したタイミング、ということになります。ただし「喜」に関してはともかく「愛」という字が仏教経典に出てきたときはそれ自体を煩悩そのものと解する場合がありますので注意が必要なのですが、この場合の「愛」とは「好きと嫌い」のレベルではなく「慈悲」と解すべきといわれます。
しかしこのご時世、普通に字面通り受け止めたとしても「喜愛」というものが欠落していると思えますのでそのままの「喜愛の心」としても大いによろしいことかと。
これを相手を思いやる心。
昔から言われる言葉でいえば
「彼を先にして我を後にする想い
他を利して己を忘れる心」
(こちらは最澄さん)であってもう一つわかりやすく記せば
「己の欲せざる所は、人に施す勿れ」とも記せるかと。
このあとの方の語は論語、孔子の語録に登場しますがそれは当ブログでもお馴染みの「恕」(またはこちら そしてこちら)という字の解説でもあります。
「怒」という字は小学校で教わりますが「恕」はなかなか教わる機会がが無いような・・・。
ちなみに先日のバス遠足で、大山崎の信号待ちをしていた際、この字を再び見かけたため、マイクを取って「何と読みますか」などと教師染みた質問を皆さんに投げかけてしまったのですが、反応はゼロでした。
あいつ(奴)が悪いと思う心が「奴+心」で「怒」。
如来さま(あるがまま)の心が「如+心」で「恕」。訓読みでは「ゆるす」でしたね。
学校では「怒と恕」は対で子供たちに教えていただきたいものです。「怒」ダケでは能がない・・・
煩悩だらけの私が偉そうなことを記してしまいました。
お前こそが「その通りだぞ」と言い聞かせるばかりです。
画像は藤枝博物館に出向いた帰りに立ち寄った大慶寺の道沿いの看板。相良城といえばこのお寺ですね。
御殿が移築されています。
私はあの松の大木を見て溜息が出ます。見事の一言。
私があちらの看板を見てスグ思いついたのがTKG・・・「たまごかけごはん」。
食欲旺盛で煩悩隙なし。みっともないことです。
それでいて座右の銘が「いかにも身を捨ててこそ」(空也さん)ですからね。
「お茶らけにも程がある」とお方さまに笑われています。
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